「成熟と喪失-母の崩壊-」コラム課題『落差』
男が惚れる男、俳優の高倉健さん。彼が亡くなられたとき、いくつかの報道の中で母親に対する愛情の深さが賛美されていた。彼は母親の死が悲しかったあまりに遺骨をかじったというのだ。私はその行動を気色悪いと感じたが、世間の報道ではその行動を健さんの美徳と捉えていた。それは数々もの映画でヤクザを演じ、男らしい役柄が定着した健さんだからという理由もあるが、昔の日本の文化による影響もあるのではないだろうか。
日本では床に布団を敷いて寝る文化がある。自分の部屋を持つまで幼い子どもは母親と隣合わせで眠る。一方、欧米ではベビーベッドに入れられ、母子が別々の部屋で寝ることもある。布団は母子の間に仕切りがないが、ベビーベッドは柵によって母子の領域が明確に分けられている。家の中では仕切りが薄い日本だが、外と内との仕切りは硬い。欧米では靴を脱ぐことなく他人の家に入ることができるが、日本では土足厳禁であり、他人の家に入るのは敷居が高い。日本では母親との密着が強い一方で、外との隔たりが分厚い。母親を慕う姿勢が美化されているのも頷ける。なんせ「おかあさんといっしょ」なんていうタイトルの教育番組が放送されているほどだ。
その反面、Googleで「姑」と打ち込んでみると検索候補に「姑 死ね」という検索ワードが挙げられる。日本の姑がいかに鬱陶しい存在かを物語っている。成長しているにも関わらず、日本の母親たちはいつまでも子どもの人生に介入しようとする。そうしなければ自分を保てなくなるのだ。密接な関係性に依存していたのは子どもではなく母親の方であり、子どもの依存心を生む要因も母親にあった。もはや「おかあさんといっしょ」ではない。「まだおかあさんがいっしょ」である。「おかあさんもういい加減いいっしょ」である。