クラーナハ展
秋元康や。
総合政策学部2年 石田 理紗子
実は、別にコラムを書いてきたのだが。クラーナハについて研究会の人たちと話すことによって新しい発想が生まれたので改めてコラムを書かせてもらいたい。
彼の絵はとても官能的だ。なぜ官能的に思えるのか。みんなの意見をまとめてみた
・表情が誘っているようで魅惑的
・体の曲線美が強調されている
・裸体の女性がふくよかでないところ
・裸体であることと冷たい、堂々とした表情とのギャップに圧倒される
・描かれている美に翻弄されている男性に同感してしまう
・ヴィーナスの透けているヴェール
などなど。もっとまとめると、クラーナハは変態だ、というものになる。そして、その絵に納得しちゃうよね、ということになった。
上に加えて、彼の商業的に成功していることが話に上がった。絵の大量生産に成功しているのだ。宮廷画家時代には、宗教画を描くことで非常に評判が良かったようだし、息子を自分と同じ名前にして活躍させている。
ふと、思ってしまった。なんだか、人を手の上でコロコロ楽しんでいる性格の悪い賢い人物なんじゃないか。みんな、「誘惑」されて、みたいな綺麗なことばでわからなくさせられてるけど、要はコロコロされてるんじゃないか。このことを伝えてみた。
「コロコロしてますよね、クラーナハって。」
そこで一言。
「なんか、秋元康ですね。」
あ。そうか、クラーナハって、ルネサンス期の秋元康や!男がかいた芸術に男がキュンキュン・ドギマギしている。うんうん、同じ同じ。
クラーナハって、ものすごいエンターテイナーだったんだね、秋元康だね、という結論で私たちは納得した。研究会ってこれだから楽しいよね。新しいコラムかけちゃったよ。研究会、さんきゅー!
賢い画家さん
マルティン・ルターの自画像を描いた人、と言ったらクラーナハのことをわかってくれるだろうか。今、日本で初めてクラーナハ展が開催されている。ルーカス・クラーナハはルネサンス期のドイツの画家だ。前記のとおり、友人であったマルティン・ルターや彼の家族の自画像を多く残したほか、宗教画を数多く描いている。
東京西洋美術館にて、今クラーナハ展が開催されている。副タイトルは「500年後の誘惑」だ。彼の絵は、特に女性に魅力があると言えるだろう。表情と視線は冷たいのだが、どこかに誘い込まれている気がしてくる。副タイトルの意味がよく分かる。裸の姿で堂々としていて、偉そうなポーズだ。でも、ムカつかないえろさがある。女性らしい腰つきが特に、という個人的な感想を持っている。しかし、表情からも体からも「媚びません」と言われている感じがする。「ただ見ているだけでいいです」と思わず返したくなる。
もう一つクラーナハの絵に対して思うところがある。魅惑的な女性と一緒に描かれる凶器とのギャップだ。淡々とした顔をして剣や人の生首を手にし、或いは釣り合わないような男性が一緒に描かれている。これだけ聞くと「違和感」をもつ絵になってしまうのだが、そうなっていないから不思議だ。
ところで、クラーナハはザクセン選帝侯フリードリヒ賢明公に宮廷画家として招かれている。彼の紹介文に「宮廷人たちの趣味や信仰心に見合った作品、あるいは政治的プロバガンダに貢献するイメージを数多く生み出していくことになる」ともある。また、大型の工房を運営し、息子や弟子たちとの共同作業で絵の大量生産を図ったらしい。それが成功しているから、なんだか面白い。このエピソードを知ってからクラーナハの絵を見ると、彼の手に転がされている感じがしてくる。宮廷人に評判がいい宗教画や、みんなが虜になりそうな女性を描いたり。もしかしたら、「500年後の誘惑」というコピーをつけやすくしようとまで考えていたのでは、と思ってしまう。
賢い、ってこういうことか。最後にそう思ってしまった。