ヒトラーの忘れもの

我々日本人は、度々「教育に悪い」という言葉を盾にし、過激な表現を避け続けてきた。東日本大震災につけても、不自然なほどに、テレビや新聞でご遺体が映し出されることはなかった。助けを請いながら津波に流されていく姿がうっかりライブニュースの画面端に映り込んでしまい、大問題になったほどだ。過激すぎるミクロは発信されず、俯瞰した映像のみが私たちにとっての震災のイメージとして刷り込まれた。出来事の本当の悲惨さを多くの人が知らずして終わってしまう。こうして「臭いものに蓋」文化に慣れきった私たちの目を、本作品は一瞬で覚ましてくれる。

 

地雷撤去という作業のみならず、食事・水も与えられない過酷な環境。容赦なく爆発する地雷、飛び散る少年兵の肉片。その全てが少年たちの精神をまた少しずつ追い詰めていく。作品の中盤では少年たちがサッカーをするシーンが描かれる。そこだけを切り取ったらまるでサウンド・オブ・ミュージックと見間違えてしまいそうなワンシーンだが、そんな些細な幸せさえも無常に地雷に奪い去られてしまう。作品のどこかに救いを見出しても、数秒後にはその全てが絶望に変わってしまった。ラストシーンはおそらくハッピーエンドなのだろうが、そこに辿り着くまでことごとく絶望を味わらせられた私に、少年たちの明るい未来を想像する力はもはや残っていなかった。

 

見終わってさすがドイツ映画だなという感想を抱いた。残ったものは不快な気持ちと吐き気だったが、同時に作品テーマに対して問題意識を感じさせてくれた。ドイツは大戦以降二度と独裁政権を生み出さないようにと歴史教育を推し進めてきた。「教育のため」に今回のような残酷な写真・映像を惜しみなく子供に見せるという。私たちが学ぶために本当に必要なのは「教育に良い」ところを厳選した和製メディアの情報なのだろうか。震災ドキュメンタリーを制作する私にとって非常に重たいテーマを突きつけられた。

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