代理課題「コンプレックスと神」

「コンプレックスと神」

実に奇妙なのは、アシェンバッハがあれだけ観察しているにも関わらず、タジオ自身は常に謎のヴェールに包まれていることだった。自分から話しかけることもなく、ただひたすらに観察するアシェンバッハの中で増幅していく、タジオの絶対的な美は、神への崇拝にも近い。所謂、枯れたおじさんが美少年に思いをはせるのは、今流行りのBLとは月とすっぽん並みに画的不快感が隠せない。でも、私の心の染みが反応する。アシェンバッハを決して厭うことはできないのだ。
私は高校生の時、あまり売れていない日本人のアイドル(男性)が大好きでファンをしていたことがある。当時の私は、今よりもう少し太っていて、メガネをかけていたこともあり、外見に多少コンプレックスを抱いていた。そのアイドルは外見的な美しさもあったが、ユーモアもあり、有名になりきれないところに自分にしかわからない独占的な価値があるようにも感じていた。CDももちろん買っていたし、新曲が出るたび、新しい彼らの写真がブログで更新されるたびに目を通していたが、ただ唯一コンサートに行くことは少なかった。一つは自分の醜い面影を一ミリともそのアイドルの頭の片隅に入れたくなかったのだが。もう一つは、自分の中で確立されたアイドルの絶対的な美が3次元を通すことによって、同じ人間だと、自分と同年代の学生であると気づきたくない恐怖心があったからである。
そう、これが、アシェンバッハを敬遠できない理由なのだ。タジオに話しかけていれば、もしかしたら、ただの少年だと気づいていたかもしれない。しかし、これは偶然ではなく必然で、アシェンバッハは自分の中で絶対的な神のような存在を見、求めていたのだと思う。それが他への盲目さの引き金となってしまったのは悲しいが、避けられない己の存在と、理想的・絶対的な美の存在は二つに一つなのではないか、と感じた一冊だった。

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