代理課題

金曜日の午前中、文化村のピエール・アレシンスキー展に行った私は、己の感性の低さを思い知ることになった。そこに並べられている作品がどうもわからないのである。迫力があったり、独創性に富んでいたり、なんとなくすごいことはわかるのだが、彼が何を表現したかったのか、そもそもこれは何の絵なのか、といったことがわからない。どのような発想をするとこのような絵にたどりつくのか、凡人の私には到底考えが及ばない。
 一番衝撃を受けたのは、ボキャブラリーという作品を見たときだ。青を基調とした大きい絵で、彼がよくモチーフに使うらしい火山や車輪の絵が漫画のコマのように並んでいた。大きさによる迫力にやられたのもあったが、この絵にボキャブラリーというタイトルを付けるのか、という衝撃が大きかった。ああ、彼にとってのボキャブラリーを私は持ち合わせていないのだな、と。
 展示を回り終わり、彼の絵について考えてみる。自由な絵だな、と思った。芸術に疎い私から見ると勢いに任せてガーッと描いただけのようにも見える(言い方が悪いが)。でも、じゃあお前も勢いに任せて描いてみろ、といわれたら絶対に真似できない。その違いは、子供の感性にある気がした。私たちは、成長するにしたがって子供ではなくなっていく。色々なものを知っていく。それ自体はとても素晴らしいことだが、その代償として子供の感性を失っていくのだと思う。もし、私が今怪獣の絵を描け、と言われたらゴジラのような恐竜タイプか、うねうねした触手タイプか、そんなステレオタイプなものしか描けないと思う。それが所謂怪獣であることを知っているからだ。しかし、子供たちはときに今まで見たことないような、新しい怪獣の絵を描いて持ってくるだろう。まだいろんなものを知らない子供たちは、知識に縛られることがない。その子供の自由さを、アレシンスキーは今でも持ち合わせているのではないか、と思った。

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