異邦人

「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない。」これは「異邦人」の有名な出だしだ。読み始めた時には、特に気にもとめなかった。しかし、読み終えてみると、この部分に続く文章を含めた出だしの3行に、ムルソーという人間の全てが詰まっているように思う。母が死んだというのに、彼には、この電報ではいつ死んだのか分からないという事務的なことにしか興味がないのだ。

 

しかし、だからといって何だというのだろうか。最愛で“あるはず”の母が死んだのだ。いつ死んだかが気になることは、何も間違ったことではない。むしろ自然なことだ。しかし、この一文に違和感を感じるのは、ムルソーが「おかしい」からではなく、「一般の人」が母の死を知った瞬間にそんなこと気にも留めない“はず”だからだ。世の中の大多数の人は、「母の死」というものの後には、悲しみを表されることを期待する。それがわかりやすければなお良い。しかし、この3行からはそれがわかりにくい。なんなら、そもそもそんな気もない。

 

この本の解説に、このように書かれている。「母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告される恐れがある」「しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日嘘をつく。」これらは、作者 カミュ自身によるものだ。「嘘をつかないこと」、「悲しみを引きずらないこと」、「死を受け入れること」世の中で、当然のごとく語られている人間の理想の姿を、ほぼ完璧に体現した時、私たちはムルソーのように死刑される恐れがある。

 

 

 

ところで、この作品は、1967年にマルチェロ・マストロヤンニ主演で映画化したわけだが、ムルソーには、どうしてもアラン・ドロンがピッタリだと、私は思ってしまった。それも「太陽のせい」かもしれない

 

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