「異邦人」コラム 『芯』
もしも、ある朝電車に乗っているとき、突然女性に痴漢と疑われたら。記憶も曖昧で、そのときの事実確認が取れない場合、恐らく自分の人間性だけで判決を下されるだろう。そんな自分の身にも起こり得る事態を想起させられた。
主人公のムルソーには共感を覚えることが多かった。人は全ての行為に意味を見出してなどいないし、必ずしも死を悲しんだり、愛を追い求めたりはしない。むしろ、そういう生き方こそ何だか嘘臭いとさえ私は考える。
ムルソーは悪い人間ではないが、世界に無関心であることがすでに罪だったのだろう。社会のルールに私たちは逆らえない。日頃から疑われない振る舞いをすることが義務として課せられている。人を見た目で判断してはならないとは言うものの、いざ罪に問われる事態となれば身だしなみも大きな判断材料となってしまうだろう。
ムルソーは自分の死が近づくことで世界に心を開いたと述べている。人生の最後に成長することが出来たと言っているようだが、それまでの自分を否定する必要もないのではないか。
どんなに自分の性格を変えようと努力しても、中々変わらないこともある。もっと自分らしく生きたい。しかし、自分らしさが社会に適合しない場合、どうしたものか。そう行き詰まったときに人は親しい人にだけ自分を晒け出し、本当の自分を認めてもらおうとする。あるいは、小説や音楽、絵など、あらゆる表現方法を通して本当の自分を発散させている。
世界に無関心でいることが社会で生きる上では罪であることに変わりはない。しかし、そんな過去の自分も決して悪くはないんだと、自分自身を認めてあげてほしかった。
痴漢の例えに立ち返ると、きっと「普段からの振る舞いをもっとちゃんとしていれば良かった」と、何度も後悔する。でも、それはたまたま罪に問われたことによって悪く捉えられたに過ぎない。そのことに気付くには長い時間が必要なのかもしれない。その充分な時間がムルソーにはなかった。