考えるな、感じろ
花火が打ち上がると、必ず一定数の人たちが写真を撮ることにムキになる。そういう人を横目で見ながらもったいないなあと思うのは私だけだろうか。ほんの一瞬で携帯のカメラロールは花火でいっぱいになるが、そのほとんどはぶれているか不鮮明かのどちらかだ。「これ」という写真1枚を撮るために、しかも撮れるかわからないのに、せっかく目の前に上がる花火を携帯のカメラ越しにみるなんて、と思ってしまう。もっとこう、その場の空気を肌で感じたら?と、私の中のおせっかいおばさんが発動するのだ。
上野の森美術館で開催中の「デトロイト美術館展」もまさにこれと同じ状況であった。この日は全展示物写真撮影可能な日であり、カメラ片手に必死になって撮影している人が多くいた。そこそこの混み具合で、正面からビシっと写真を撮るにはじりじりじりじりと進む列に根気よく並び、ベストポジションにきたそのわずかな時間に決めるしかない。もちろん撮影自体を否定するわけではない。写真は思い出づくりには欠かせないし、記録にもなる。しかし、そのことに集中しすぎて、その時、その場の、その一瞬の空気を味わえないことは写真に残せないことよりもずっともったいない気がするのだ。
イタリアで「最後の晩餐」をみた時のこと思い出した。ラッキーな偶然が重なり、私たち家族だけで通常の2倍の時間絵をみることができた、あの時、あの場の、あの一瞬を。息を飲み込む音さえ聞こえるような静かな空気。ずっしりとしているのに、自分の中の悪が洗われて心が軽くなるようなそんな空気。そうして昔の光景に思いを馳せていると、ふとゴッホと目が合った。「考えるな、感じろ」私にしか聞こえていないであろう声。そうだよね。私はにんまりして、そっと目を閉じた。耳じゃなくて大事に心を切り取るわ、ゴッホさん。