Cry girl.

一目見て思った。彼女の苦労に塗れた表情は、ありのままに生きたくて闘った証だと。彼女の歌う姿に、胸が締め付けられた。
この作品は、シンガーとしての彼女ではなく、自分らしく生きたいと願う少女を描いたものであった。ジャニスの歌を歌ったことはあっても、なぜかその歌声を聴いたことも彼女について知ることもなかった。映画が始まって何分もたたずに啜り泣く息遣いが聞こえたとき、彼女はそれだけ人の心に魂を残したのだと悟った。映像から迫り来る孤独に呑まれたのは、そのすぐ後だった。
彼女の孤独の闇は深い。その深さは音楽にも表れていた。彼女の歌声はときに甘く、ときに激しい。孤独の闇から助けを求めるような人懐こく甘い声と、自由に自分らしくいたいんだと叫ぶような声。その歌声が瞬時に切り替わる。鳥肌が止まらなかった。感じるままに、溢れる感情を歌うだけ、と言う彼女はまさにそれを体現していた。
伏し目がちに何かを見つめる彼女の瞳は、いつも今にでも泣き出しそうに見えた。知的で繊細な彼女は、随分傷つきやすかっただろう。血の通っている、今を生きている人間として、世界から逃げずに闘った。その哀しみを歌に込めたのだ。
ありのままに生きるということは、自由と孤独が背中合わせになっている。自分の道を決めるとき自由ではあるが、選んだ先には孤独が付きまとう。自由とはそういうことだ。彼女は自分らしくいるために自由を選んだ。選べば選ぶほど孤独になった。その淋しさや孤独から抜け出すように、薬や酒にセックスへと溺れる。それらの情況が生みだした感情は、彼女の歌に魂を宿した。だから彼女の歌声は心に響く。
「Little Girl Blue」は自分自身に言い聞かせるように歌ったのかと、エンドロールを見ながら思った。哀しみを知っていることは、強さでもある。誰よりも痛みを理解し優しくなれる。そんな彼女の歌声は、痛みに絆創膏を貼るように、哀しさを包んでくれるように包んでくれ、「一人じゃないから」そう言われているようで、歌声に包まれたまま私は気づいたら朝を迎えた。

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