海
わたしにはわたしの海があってあなたにはあなたの海がある。その海への行き方は誰も知らない。自分自身さえも。けれどそれは確かにそこにある。さわさわと振れるフリルに互いに絶対混ざり合わないきらきら。ペールグリーンに、ピンクベージュそして、アイスブルーとわたしの好きな色で構成されている世界。そこには私ではないわたしがいる。わたしにはわかる。彼女はそこにいるのだ。目を閉じれば波の音が聞こえる。波打際で嬉しそうにはしゃいでステップを踏む彼女の足音が聞こえる。わたしがもっていないすべてを持っている女の子。彼女にあえるならなにだってする。どんなことだってする。それくらい会いたい。わたしはわたしに会いたい。会ってたくさん質問したい。
あなたの特技はなあに。
あなたはの苦手なものはなあに。
あなたの好きな人はだれ。
あなたは何をしている時が一番幸せなの。
あなたは何者なの。
彼女はきっと考えることなく、氷のように冷たく凛とした声で答えてくれる。わたしにはわかる。けれどきっと聞こえない。わたしは耳をふさぐから。彼女がわたしの耳をふさぐから。5本の指すべてが、同じ細さの小さな手でそおっと。わたしはそれを拒まない。わたしはそうしてそっと彼女に触れてみる。首筋から頬まで手を這わせてみる。そして唇で手の軌道をなぞるのだ。壊れてしまわないようにそおっと。海は二人の後ろで静かにうねる。けれどふたりのあしもとには真珠のつぶしか届かない。わたしはわたしがわからない。けれど彼女はわたしを知っている。わたしは彼女がわからない。けれど彼女は彼女を知っている。わたしはわたしを抱きしめる。彼女はわたしをだきしめかえす。そうして三十秒世界が止まっていてくれれば、わたしは明日をも生きていける気がする。だって彼女は美しい。3個目の真珠が彼女の足首にあたってくだけ、小さな粒子となった。
*
月曜日。十時を過ぎた頃にわたしは目を覚ました。眠りすぎた時に見るあの夢を頭の中でぼやあっと反芻しながら、真っ白なベッドを抜け出す。あの夢は小さい頃からたまに見るけれど、いつもぼんやりとしか思い出せない。わたしはこの世界ではないどこかにいて、誰かに守られている。わたしも誰かを守っている。私たちは二人で一人なのだ。今なら何か描けるかもしれないと思った。ベッドの隣に無造作に落ちているまっさらなキャンパスを拾い上げてマットレスの上に放り投げる。隣で眠っていた犬が振動に驚いて起きた。わたしはそっと犬の顔に頬を寄せてふたりは朝の挨拶をすませた。サイドのテーブルに置いてある花瓶には、花の代わりに様々な長さのブサイクな鉛筆たちが生けられている。わたしはその中から3Bの太めの鉛筆を取り出し、芯がより太くでるように慎重にナイフで削った。削がれた木の部分がぽろぽろ床に落ちる。それを、犬が余さず拾って食べた。ようやくキャンパスと向き合った頃には起きてから十分くらい経っていたかもしれない。目を閉じてわたしの中の表現したい何かに触れようと試みるけれど、それはもうそこにはなかった。朝目覚めた時は確かにわたしの肌に触れていたのに。何かがわかりそうだったのに。犬がくうんと鳴いてキャンパスとわたしの間に入り込んできたのでわたしはもうキャンパスと向き合うのをやめた。お腹が減っている。犬もそう言っているのだ。わたしは白で統一されている聖域を出て、キッチンに向かった。犬があとをついてくる。こじんまりとしたその空間には調理器具があまりなく、トースターとコーヒーを淹れる一式とフライパンくらいしか見当たらない。厚切りのトーストを一枚トースターに突っ込む。水道をぎゅっとひねり、水がうねりでてくるのをやかんで受け止める。そして、小さな瓶からコーヒー豆を少量取り出しグラインダーに入れる。豆を挽いていると、香ばしい大地の香りが広がった。ドリッパーに移し、ちょうどいい具合に湧いたお湯を高い位置からそそぎ蒸らす。中心に真上から注ぐのがポイントだ。コーヒーの準備が整ったところでトーストを取り出しバターをたっぷり塗った。犬が見せろと言わんばかりに膝に飛びつく。お気に入りのブルーベリージャムをしっかりミミのところまで塗って完成だ。わたしは朝ごはんを淡い青色のお皿に乗せ、コーヒーを同じ色のマグカップに注いでキッチンを出た。犬はしっぽをふりながらついてきた。わたしが嫌いなミミの部分をもらえることを知っているのだ。ペールグリーンを基調としたリビングにやってくるとソファの前の小さなテーブルに食器を置き、わたしはソファに腰掛けた。テレビは嫌いなので家にはない。犬のしっぽが空を切る音だけが聞こえる。そんな静かな朝がわたしは大好きだ。トーストをかじってコーヒーをすすり、ミミを犬にやりながらテーブルに置いてある小説を手に取った。わたしが小学校の頃にたまたま近所の古本市で出会ったその小説は、今でもわたしの一番のお気に入り。しあわせな気持ちの時に読むと心がより一層落ち着くのだ。
「お気に入り」という言葉は、自分の気が入っているという意味だ。自分の気が入ったものは自分の運気をあげてくれるという。だからわたしは「お気に入り」に囲まれて生活することを心がけている。祖母から譲られたこの家には、わたしたったひとりと、わたしのお気に入りだけが存在している。壁も、家具も、家事用具も、服も、植物も、もちろん犬も。
わたしはしばらく本に目を通し、コーヒーの最後の一滴を飲み干した。コーヒーをおいしいと思う気持ちは忘れたくないと心に念じて食事を終える。犬も満足そうにソファに寝転がっている。そっと頭をなでてやると、お腹をみせてもっとなでろとせがんできた。犬とは不思議な生き物だとつくづく思う。そうやって犬とひとしきり戯れてからわたしは洗面所に向かった。犬はわたしのいく先々どこへだってついてくる。洗面所は、ピンクベージュを基調とした小さな部屋で、バスルームも兼ね備えている。壁に直接ついている洗面器に手を置き、ちょうど顔の位置にある丸い鏡を覗き込むといつものわたしが無気力に見返してきた。髪をひとつにくくって顔を洗い、綿百パーセント、こだわりのやさしいタオルで水滴をぬぐった。続けて歯をみがき、髪をとかし、肌にオイルを塗り込んで身支度をおえた。犬は退屈そうに床にころがっている。今日はお昼から授業がある。お昼までさほど時間もない。わたしは再びベッドルームに戻り、クローゼットをあけた。中は淡い色で埋め尽くされていた。わたしは慣れた手つきで、袖がちょっと長い水色のワンピースを取り出し身につけた。春先は夜冷えがするので、カーディガンを取り出すことも忘れなかった。ストッキングに足を通し、白い、大きなかばんにスケッチブックや鉛筆など授業に必要なものをめいいっぱい詰め込むと寝室を出た。犬はついてこなかった。わたしが出かけてしまうことを知っているのだ。ベッドの上でまどろんでいた。
*
わたしは、都内のある美大で油絵科を専攻している。家からその大学までは徒歩で三十分ほどだ。電車に乗れば五分ほどだけれど、わたしは電車が苦手なので大抵の場合徒歩で通学している。大学入学してから二度目の春。今わたしは有り体に言って挫折している。自分の最奥には「わたしのかたまり」のようなものがあって、それを外に出さなければわたしはわたしにはなれない。そして今までは、絵を描くことで自分の一部を外に出してあげられているような気がしていた。けれど大学に入って専門的に絵を学ぶようになるとわたしはどんどん絵が描けなくなっていった。怖い先生に怒られないような作品、学んだ技術が活かせるような作品。たくさんの人が気に入るような展示。意識することばかりが増え、自分の本当に描きたいものを見失ってしまったのだと思う。けれど、今までだって本当にわたしの生き印となるような作品を生み出せていたかと言われれば、そうではない。いつだってわたしの作品は薄い膜が全体を覆っていた。周りの人は気付かないけれどわたしにはわかる。
学校までの道のりを歩き終え、校内に入ると若い人たち特有の熱で数度暑くなったように感じられた。わたしにはないその熱は鬱陶しく肌にまとわりついてくる。だから大学は嫌いなのだ。友達もさしていないわたしは、誰とも出くわすことなく教室についた。教室は真っ白な壁に囲まれた小さな部屋なので、人間の存在が目立つ。遅刻なんてしてしまったらみんなの視線にとらわれながら入室しなければならないのでわたしは絶対に遅刻しない。
今日もわたしは一番乗りだった。白い教室にたった一人でいると、わたしだけが地球上に存在する唯一の生命体であるような気がしてくる。孤独感。疎外感。どんどんマイナスの引力に引っ張られていく。重力がだんだん重くなっていくように感じられた。机に突っ伏して、これ以上頭が下に落っこちていかないように目をぎゅっと瞑って耐える。
「だ、いじょうぶ!?」
驚きで少し上ずった声が聞こえた。肩に触れられなかったらわたしが話かけられているだなんて気づけなかっただろう。そっと目を開けてみると隣に小柄な男が立っていた。わたしは突然の出来事と、突然の重力の軽減に呆然とし、何を言えばいいのかわからなかった。
「誰っ。」
鈍いわたしの頭はまだ驚きから立ち直れていなかったので勝手な言葉が口をついて出てしまった。幸い男は少し怪訝な顔をしたものの、特に失礼とも思ってないようだった。
「えっと、俺? 佐藤。いつも隣の教室で受けてる。おまえ、小泉だよな。小泉はるき。」
「ち、違います。」
人間不信な癖が出てしまいつい嘘をついてしまった。怪訝な顔をした佐藤氏はそのまま
「あっそう。なんか別に大丈夫そうだね。じゃあ。」
とぶっきらぼうに言い放つとさっそうと教室を出て行ってしまった。取り残されたわたしは自分の失礼な態度が急に現実味をおびて思い出され、羞恥と後悔で死にそうだった。どうしてわたしの名前を知っているのか、なんて疑問も忘れてしまうくらいに。
そこから一日どう過ごしたのかあまり思い出せない。朝の数分が永遠とわたしの脳裏で再生されていて、時折先生の声が佐藤の声に聞こえたりもした。周りから見たら今日一日わたしは生き霊にでも見えたかもしれない。数少ない友達でさえも話しかけてこなかった。もしくは聞こえなかっただけかもしれない。
夕刻になり、ようやく授業から解放され、逃げるように帰路についたわたしは、半ば走って学校から離れようとした。ようやく学校が見えなくなると安堵が心に広がり始めた。一刻もはやくわたしの犬に会いたい。何をしても、何を言っても裏切らずにずっと愛してくれる、必要としてくれるわたしの犬に会いたい。そう犬で頭も心もいっぱいにし、路地を急いで曲がり、玄関までかけていった。いつもドアを開けると目の前でしっぽを振って待っていてくれる犬。しかし今日に限って姿が見当たらなかった。突然の裏ぎりに少々苛立ちを感じないでもなかったけれどわたしは靴を脱ぎ捨てベットルームに向かった。きっと寝ているのだろうと思ったからだ。けれど予想は外れた。どこにいるのか検討がつかない。じりじりと焦りがわたしの背後まで忍び寄ってきていた。家中を探し回ると、脱ぎ捨てた靴を履くのも忘れて外に飛びだした。思い当たるところなど全く思いつかなかったけれどそこらじゅうをかけ周った。そしてそのまま夜が明けた。わたしはしぶしぶ家に戻るとそのままベッドルームにまっすぐ向かった。無造作に置かれたキャンバスをつかむと無心で鉛筆を走らせた。自分の中にある犬の存在にまっすぐに向き合いながら心が赴くままに描いた。描いて描いて描きまくった。鉛筆がキャンパスに触れるたびに自分の膜が剥がれていくのを感じられた。嗚咽とともに自分の中身が外に吐き出されていくのを感じた。
*
わたしが犬を失ってから何時間が経っただろうか。わたしが新しく生まれてから何時間が経っただろうか。犬。わたしのかわいい犬。拾ったその日からわたしに保護されなければ生きていけなかったか弱い存在。当たり前のようにずっとわたしの後を追ってくるかわいい存在。あんな無力で小さな生き物がこの残酷な外界で生きていけるはずがなかった。きっともうわたしとは別の世界にいってしまったのだろう。そこでだってちゃんと生きていけるのか心配だ。
わたしは大きな代償を伴って自分の海への道をみつけた。わたしの海を探し当てた。ずっとさがしていた、もうひとりのわたしの住まう場所。悲しさの中に清々しさが混じった複雑な感情の波がわたしを飲み込もうと高く高くうねっていた。
自分の変化を確かめたくて外に出ようと思った。きっと今なら、万物がわたしの味方に見えるはず。きっと今ならうまく人と話せる気がする。わたしは生まれ変わったのだ。玄関までかけていき、しっかりパンプスを履いて扉をあけた。玄関を出てあてもなく歩く。角にさしかかれば好きな方に曲がる。何も考えずにわたしは歩いた。気分は良かった。それなりに。そして3個目の角を曲がったところで小柄な男の後ろ姿を捉えた。わたしの心臓は跳ね上がったけれど、その後ろ姿に先日の無礼を佐藤に詫びることを誓った。と、男が振り向いた。佐藤だった。わたしの心臓は止まった。
「小泉? 何してんだよ、こんなところで。」
わたしは震える声を振り絞って言った。
「その犬どこでみつけたのっ」