空っぽ

「無」は存在も意識もない全くの無の状態であるが、内部に限りない創造的エネルギーを秘めた「無」なのである。たとえば、いま目の前にいる君に「好きだ」と言葉にしたとして、この二人の距離がいつまでも平行線であったとする。それでもこのふたりの距離分の無には、限りなく意味のある無があったりもするわけで。しかし、その「無」は禅の面から見ると重要な意味をもつ。
禅の全体構造としては、三段階ある。意識と存在が分化した状態、意識と存在が分化されない同一の状態、意識と存在が分化した無「本質」分節である。この構造は、座禅からも実体をもって経験ができる。禅の初めは、自分が確かにここにいる感覚があり、意識と自分の存在をはっきり認識できる。そして、「無」に集中していく過程で、自分の雑念に気づき限りなく意識と存在を「無」に近づけていき同化してしまう。そして、終わる頃には念と体が分化していることを感じられる「無」に辿り着く。(あくまで個人の体感でしかない。)
「無」は純粋意識そのものである。そのため無意識とは、純粋な欲を表層意識に出してしまうため、とてもおそろしい。しかし、その純粋さは大人になるにつれて羨ましくなったりする。言いたいことが言えなかったり、言葉を選んでしまう鬱陶しさから解放されたいときもある。
そういえば、秋の初めに座禅のために鎌倉へ赴いたことがある。「無」になり、心を浄化しようと努めたものの、様々な雑念が纏わりつき呼吸が溺れたりもした。座禅が気づかせてくれたのは、とても残酷な結末であったりもする。意識がどこにあるのか全くわからなくなり、強いて言えば長時間組んだ足がしびれて感覚がないくらいしかわからない。経験的世界は、本質の無い「空」なのである。それでも、終わって清々しい気持ちより、何か大切なものを忘れてしまったような喪失感におそわれた。「無」とは、意味のある空っぽなのである。
いま、私は確かにここにいる。そして、空っぽの私は何かを感じ考えている。そしてそれを伝えたくて、言葉をつらつらと紡いでいる。それだけで確かに意味があるのだと、信じたい。IMG_0257

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