若冲と昆虫
あの虫を捕まえたい。
私の心は目の前を本物の昆虫がひらりと横切った時のように高揚した。多くの昆虫の体は左右対称で予期せぬ線の少ないシンプルな形をしている。だから、昆虫好きであれば、大抵誰でも、それなりに、上手いねと感心されるようなものが描ける。
そういう意味で若冲の描く昆虫は、ずば抜けて写実的というわけではないと思った。
しかし、抜群に捕まえたいと思わせるのだ。昆虫を描く時に出てしまう固さが微塵も感じられない。
とりわけ素晴らしいのが翅の表現だ。薄く透き通るトンボなど蜻蛉目の翅、ピンと張ったバッタなど直翅目の翅、華奢で柔らかいチョウなど鱗翅目の翅。
この虫たちなら飛べる、一人で頷いた。
若冲のチョウは自由だ。チョウは風の流れに上手く乗ってふわりと舞い、色気に似た空気を纏っている。捕まえようとしても手の指の隙間から身をかわしてどこかへ飛んで行ってしまうだろう。
捕まえたい。この虫を捕まえたい。昆虫好きの本能が沸き立つのを感じた。
ふっくらとした腹のバッタはいかにも旨そうだ。大きな網を上からかぶせたら、やたらめったらに跳びはねるだろう。私は網の上からよく太ったバッタを鷲掴みにして、ジュージューと音を立てる油の入った鍋に勢いよく放り込む。活きのいい若冲のバッタは油断するとポーンっと跳ね出してくるから、すかさず蓋を占める。カリカリに揚がったバッタを無心に頬張ると爽やかな野草の香りが鼻を抜ける。
無論、昆虫以外もいける。今度はよく熟した糸瓜を大きな包丁で、薄く切って、肉味噌と炒める。瑞々しくほのかに甘い。最後はメインディッシュに鶏の丸焼きでも…と思ったが、若冲の描く鶏の太い蹴爪と鋭い眼光を見たら、足がすくんだ。ひ弱な私なんかは一蹴りでやられてしまうに違いない。それでも、もし、チャンスがあったら…。若冲の鶏の美しい羽毛の下に隠された発達したもも肉を思い浮かべると口の中にじわっと唾液が湧いてきた。