夏の終わり

 

「好きっていう感情は、理屈じゃないの」
 そう言って笑った彼女の顔を、僕は忘れることはないだろう。どんな話の流れだったとか、そういった細かいことは覚えていない。彼女は恋愛小説が好きだから、それに関連する話だったかもしれない。ただ、彼女の髪を揺らす夏の風や、岩肌に砕けて消えていく波の音、空から照りつけて肌をじりじりと焼いていく太陽の光、そしてその陽光にも負けずに輝いていた彼女の笑顔が、僕の記憶に焼き付いていた。今思えば、僕は彼女のあの笑顔にやられてしまったのかもしれない。
 
 好きっていう感情は、理屈じゃない。彼女が言ったとおりだと僕も思う。彼女のどこを好きになったのかと聞かれて、とっさに答えることは難しい。花が開くような笑顔であったり、明るく人当たりのよい性格であったり、繊細な筆使いが美しく、見るものを魅了する彼女の作品であったり。彼女の美点はいくつも思い浮かぶのだが、そのすべてをまとめたところでまだ何かが足りない気がしてしまう。どんなに言葉を並べてみたところで、それは自分が抱いた、あの感情とは別の何かになってしまう。誰かを好きになるというのは、好き、という感情とはそういうものなんだろう。
 彼女と出会った日のことは、今でもはっきりと思い出せる。あの町に引っ越してきて、まだ間もなかったころ。中学から入っていた美術部にここでも入部しようと、美術室に訪れた僕を迎えたのは、窓から差し込む赤い夕焼けと、カンバスに向かう彼女の後姿だった。彼女が顔を動かす度に、美しい黒髪が揺れる。彼女が紙の上に描く夕焼けは、目の前に映るそれをそのままカンバスの中に落とし込んだようで、それでいて現実の夕焼けにはない、優しく包み込むような雰囲気を表現していた。彼女の絵の素晴らしさと、真っ赤に燃える夕焼けのなか絵を描く彼女、というそれ自体が一枚の絵になりそうな完成された光景に、僕は声をかけるのも忘れ見惚れてしまっていた。どのくらいの間そうしていただろうか。彼女を見つめて立ち尽くしていた僕は、筆をおき、体を伸ばして反り返らせた彼女と目が合ってしまった。呆けたような顔をして僕を見ていた彼女は、自分の体勢を思い出したのか慌ててこちらに向き直った。
「……誰ですか?」
 そういう彼女の頬は照れているせいか、夕焼けのせいか、赤く染まっていた。
「二年三組の赤城英人といいます。美術部に入部したいんですが……」
「あ、最近引っ越してきたのって君だよね? 絵描くんだ。今日はもう顧問の先生が帰っちゃったから、明日入部届を渡しておいてくれるかな」
「はい、わかりました」
「同学年だからかしこまらなくていいよ」
 そういうと、彼女はにっこりと笑った。その笑顔は何の混じり気もない、素直なもので、僕が今までみたことがないような、優しい表情だった。
「私は二年一組、清水侑子。これからよろしくね」
 
 これが、彼女との出会いであり、僕が彼女に興味を持ったきっかけでもある。その後、僕と彼女は自然と親しくなった。僕らが住んでいたあの町は田舎で人口が多くない。銀行員の父を持ったせいで引っ越しには慣れていたが、それ以前に僕が住んでいたところはどこもそれなりに都会だったので、あそこの自然の豊かさと人の少なさには驚いたものだ。僕たちが通っていた高校も全校生徒二百人程度の小さな学校で、その中で同じ学年で部活も一緒となれば、親しくなるのも当然だろう。僕が入部したころ、美術部は三学年合わせて七人いて、そのうち同学年は僕と彼女、そして彼女の同級生である三並の三人だった。三並とも仲は良かったが、あのころの僕は彼女に夢中だったので、彼に関しては詳しく思い出せない。美術部に入部してから、僕は彼女と三並の三人でいることが多くなった。クラスにも友達はいたのだが、僕はできるだけ彼女のそばにいたかったから。なにより絵という共通の趣味があったので、彼女たちと日々を過ごすのは楽しかった。
 彼女と親しくなっていくにつれて、僕はだんだん彼女に惹かれていった。なんでそうなったのかは、今でもよくわからない。ただ、最初のきっかけはやはり、彼女の絵だったんじゃないかと思う。風景を切り取ったかのように美しく、だが写真にはない優しさ、温かさを感じさせる彼女の絵。技術の面でいったら、当然プロの画家たちにはかなわないのだろう。だが、他の絵にはない、彼女の澄んだ内面を表しているような、心の奥にそっと入り込んでくるような、彼女の絵。僕は、その絵が、そんな絵を描く彼女が好きだった。彼女の絵、また絵を描いている彼女の姿を見ると、心のなかにちいさな火がついたような、穏やかな、温かい気持ちになった。そして、自分はつくづく彼女に惚れ込んでいるのだなあ、と思ったものだった。
 田舎独特の、緩やかに過ぎていく時間のなか、僕たちは、彼女と出会った初夏の日から季節をともに過ごしてきた。三人で遊びに行ったり、美術室で黙々と絵を描いたり、他愛もない話をしたりと、何気ない日常で、僕は彼女を知っていき、そのたびに彼女に恋していった。今思うと、僕の彼女への好意はかなりわかりやすいものだったと思うが、幸か不幸か、そういったことに対して鈍感な彼女は気づきもしなかったし、僕は僕で、関係を壊してしまうのが怖くて、告白できずにいた。そのため僕たち三人の関係は変わることはなく、時間が経っていった。そうしているうちに、僕らは三年生になり、夏になった。そして、七夕の日を迎えたのだ。

 あの頃、僕は進路に悩んでいた。父親の転勤が決まったので、大阪の方へ引っ越すからそっちの大学を受験したらどうだ、と言われていたのだ。僕は進学するつもりでいたのだが、町の近くに大学はなく、もし町から通学しようとするとかなり時間をとられてしまうので、父の話は決して悪い話ではなかった。だが僕は町から、彼女から離れたくなかった。自分の仕事で何度も環境を変えてしまっているという負い目があるのか、父ははっきりとした返事を返さない僕を急かすことはなかったが、いくら考えてもどちらかに決めることができず、僕は頭を抱えていた。いつまでも悩んでいるわけにもいかないとさんざん頭をひねった結果、彼女への気持ちに何らかの形で決着をつけてしまえばいいのだ、と思った。今までは、三人の関係にヒビを入れてしまうのが嫌で告白できなかった。でも、いつまでもこのままではいられないのだから一歩踏み出さなくてはならない。そう思って僕は、彼女に告白することにしたのだ。
 そして、七月七日の夜。前日、星を見に行かないかと誘ったら二つ返事で頷いた彼女と、二人歩いていた。七夕だったから星を見に行こうと誘ったが、他の日だったら、海に行こうに代わっていたかもしれない。
「ところで、今日はなんで急に星を見ようって思ったわけ?」
「そりゃ七夕だし。ちょっと気分転換にいいかなと思ってね」
 進路のことで悩んでいる、ということは彼女たちには話していた。彼女もまだ決めかねているようで、三並だけ東京の大学へ行くと早々に決めていた。
「そうだね、たしかに最近悩んでばっかりだったからいいかも。今日は天気もいいしね」
 そう言って、彼女は笑った。相変わらずその笑顔は魅力的で、思わず僕も笑ってしまう。ご機嫌な彼女と話しながら、住宅地から少し離れた公園に向かう。夜であっても蒸し暑く、歩いているうちにうっすらと汗をかいてしまった。十分ほど歩くと、誰もいない公園が迎えてくれる。子供が少ない町なので、この公園には昼間からあまり人がいない。夜は当然誰もおらず、入口で切れかけた街灯が一つちかちかと点滅していて、その薄暗い光に照らされているブランコと滑り台は、どこか寂しさを感じさせる。彼女が一直線にブランコに向かっていたので、その後を追う。ブランコに腰かけながら、七夕の夜空を仰いだ。そこに広がっていたのは、暗闇を埋め尽くすかのように散りばめらている星たちだった。星座がわからなくなるほど多く見える星は、輝き、瞬いて、暗闇を照らす。小さな星たちが集まって、光の帯を造っているのが天の川だろう。星の川を挟んで二つ、互いに自分の存在を知らせあうように、互いを求め合うように、ひときわ強い光を放つあの二つの星が彦星と織姫に違いない。ここにきて初めて星をみたときの感動が胸の奥から蘇ってくる。僕たちは何も言わず満天の星空を眺めていた。
「.……綺麗だね。他に言葉が思いつかないくらい、綺麗」
 ほう、とため息をつき、彼女が呟く。星を眺める彼女の横顔からは、彼女が何を考えているのかうかがい知れない。
「本当に綺麗だ。……すっきりしたかな?」
「うん。星見てたら、なんか私の悩みなんかとても小さいことのような気がして」
 照れたように微笑む彼女は、事実すっきりとした表情を浮かべていた。
「気分転換になったんだったら、誘ったかいがあったかな」
「うん。おかげでどうしたいのか決まっちゃった」 
 え、と間抜けな声をだす僕を見て、彼女は話しだした。
「進路決められない、って言ってたじゃない? 私ね、絵に対してどう付き合っていくかで悩んでたの。趣味として続けるのか、美術系の大学に入って、しっかり勉強してみるのか。私の絵がそこまで価値のあるものかはわからないけど、私がやりたいこと、って考えて一番最初に思いつくのが絵のことだったから、やってみたいなって思って。でも美大なんてこのあたりにないから一人暮らしすることになるだろうし、って悩んでたらさ、三並君は東京言っちゃうっていうし、赤城君は大阪に引っ越すかもしれないし……」
 彼女に恨めしげな目でにらまれる。ごめん、と頭を下げると冗談冗談、と苦笑する彼女。
「そんなこんなで頭のなかこんがらがっちゃって、どうしたいかまとまらなかったんだよね。でも、今この星を見て、決めた。私東京に行って、芸大で絵を描くよ」
 そういった彼女は、まっすぐ星を見つめていた。
「芸大で勉強して、自分の絵がどの程度のものなのか、挑戦してみたいと思う。たとえそれが大したものじゃなかったとしても、後悔はしないと思うから。あとさ、よく考えると三並君も東京に行くってすごいラッキーだよね? 困ったときに頼れるし、寂しくないし。同じ学校に通うわけじゃないから、一緒にいられるわけじゃないんだけどね。でも東京に三並君がいる、ってことは変わらないし」
 どこか嬉しそうに頬を赤く染めながら、彼女は話している。それを見て、ふっと僕は気が付いてしまった。僕の恋は、叶うことはないのだと。彼女が想っているのは、僕ではなく、あいつなんだと。思えば、予兆はあった気がする。僕が彼女を見ていたように、彼女は、あいつを見ていた、そんな気はする。僕が気づいていないふりをしていただけで。
「芸大か……清水ならできると思う。僕は清水の絵、すごく好きだよ。だから、頑張ってね」
 なんとかそう口にすると、思わず泣きそうになってしまう。慌てて涙を堪えて、空を見上げる。そこには先ほどと変わらず星が輝いていた。その輝きは、手が届くのではないかと錯覚させるほど強く、だが、どんなに近くに感じても、星に伸ばした手は届きはしない。
はるか遠い星を見つめながら、僕の恋は空の彼方へと消えていった。

 七夕のあと、大阪に行くことを決めた僕は死に物狂いで勉強していた。どうせ向こうの大学に行くならレベルの高いところに行ってやろう、と思ったし、他のことを考える暇がないくらい勉強することで、失恋について考えないようにしたかったからだ。それでも時折思い出してしまっていたのだが。自分がかなり引きずるタイプだと知りショックを受けた。そんな風に過ごしていた、夏も終わろうとしているある日のこと。僕は久しぶりに外に出て、あてもなく歩いていた。家にこもって勉強している僕を心配した両親に、たまには外に出るよう言われてしまったのだ。今外を歩いたところで気分転換になんかならないし、万が一彼女に会いでもしようものなら泣いてしまうかもしれないな、とぼんやり思いながら歩いていたら、いつの間にか家から電車で三十分ほどいったところにある浜辺に辿りついていた。時計を見てみるともう夕方だ。だいぶ長い時間さまよい歩いていたらしい。やっぱりまだ駄目だな、と自嘲しながら、波にぎりぎり濡れないあたりに腰を下ろす。海に来るのは久しぶりだった。去年の夏休みに、三人で遊びに行ったのが最後だったと思う。脳裏に浮かんでくる彼女の笑顔を振りはらい、足先にまで寄せては返す波を、果てしなく広がる海を眺める。遥か遠くまで広がる青は夕焼けの朱に照らされて、どこか幻想的で、もの悲しい気分にさせる。目の前の海も、朱い空も、水平線の果てまでどこまでも広がっているはずなのに、眺めていると不思議と終わりを感じるのはなぜだろうか。彼女と出会ったときも、美しい夕日が差し込んでいた。あの日のことや、彼女との思いでがふっと目の前をよぎっては消えていく。波の音と潮のにおいに包まれて、気づくと僕は涙を流していた。こうして僕の夏が、恋が終わった。

 大阪に引っ越してからもう二年も経ったと思うと、時の流れの速さを感じる。僕は受験に見事合格し、大学生として忙しくも楽しい日々を過ごしている。彼女は本当に、東京に行ってしまった。今頃は芸大で絵の技術を磨いていることだろう。彼女の絵がどう成長していくのか、楽しみで仕方ない。三並とはどうなったのだろうか。聞かないままこちらに来てしまったので、彼女の恋が実ったのか、そうでないのか僕はいまだに知らなかった。
 こうして夕日を眺めていると、たまにあの日々のことを思い出す。彼女は今でも知らないのかもしれないが、あのとき、僕はたしかに恋をしていた。いつか彼女に、笑いながらこの話をできればいいと思う。そんなことを思いながら、僕は沈んでいく夕日を見送った。
 

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