クローン
お父さんに似なくてよかったね。父親の知人とあいさつを交わしたのちに、二言目にはこう言われたことが何回あっただろうか。恵子は目を細め、そろえた指を口に添えながらいつも通り笑ってみせた。父親がこのやろうと知人に殴りかかる真似をするのを眺めながら、恵子は会って間もない彼の薄くなった頭皮に目をやり吐き気を覚える。
恵子の父親は、いかにも日本人的な顔立ちをしており、彼が女として生まれていたなら現代では決して美人とは評されないような造形をしていた。しかし彼は頭が切れ、大きな仕事をいくつもこなし、娘の恵子から見てもユーモアがあり異性からも同性からも好かれる性格をしていた。
「お母さんに会いたいなぁ、何してるの」
はげ頭が三杯目の焼酎の水割りを飲み終えると、恵子の父親に向かってそう言った。恵子は空いたグラスをさりげなく手に取り、氷を数個入れてから焼酎の瓶のふたを回した。
「知らねぇよ、今頃祇園にでもいるんじゃねぇの」
近頃酒に弱くなり、耳から頬にかけて赤くなるようになった頬をしながら父親はふてくされたように答える。恵子の両親は、籍こそ外していないが、それぞれ別の家で暮らしていた。子供のお受験や教育という肩の荷が下りた彼女は、父親の言う通り今頃どこかで存分に羽を伸ばしているに違いない。
本当に、きれいな奥さんだよなぁ、この辺じゃ珍しくて有名だったよな。母親を知っている人が言う典型的な言葉に、恵子はいつだか母親から見せられた、彼女が二十代のだった頃の写真を思い出す。
恵子は完全に父親似だった。しかし外見は似たものの、中身は全く似ておらず、十五位まではその内向的な性格から友人と呼べる存在はほとんどいなかった。
母親はそんな恵子を社交の場の話のネタによく使い、両親と父親の勤め先の催し物に行けば、必ず父親と似ている恵子の外見を茶化した。赤が入ったワイングラスを片手に、ネイルサロンで少し長さを出したつやつやの爪が生えた白い手を使い、母親は軽快に話をしていたものだった。
この子が小さいときはね、家に主人を呼びに来た社員さんがこの子を見ては、課長お疲れ様ですと挨拶したものよ。
大きな目と長いまつ毛がパタパタと動き、周囲にどっと笑いが起こる。当時の恵子は、小さく体が震えるのを感じながら口角を上げるのが精いっぱいだった。
父親が眠くなったと言い始めたので、恵子は店の人にタクシーを呼ぶように伝えた。明日は仕事だ、もう日付が変わっていることを腕時計で確認し小さくため息をつく。着物の店員がタクシーが到着したことを恵子に伝えに来たので、テーブルの上に置かれた父親の携帯電話と財布を持ち、椅子に体重を預けて寝かけている父親の肩を軽くたたいて起こした。
家に帰ると恵子は風呂を沸かし、コンタクトレンズを外し洗浄液の入ったケースにしまった。洗面台にうつる自分の顔を覗き込み、新たにできたニキビや、ファンデーションで隠していた毛穴を確認する。近頃不規則な生活を送っていたせいか、疲れが見える素顔に恵子はぞっとする。
これじゃまだだめだ。恵子は昔見た白く透き通る母親の肌を思い出す。
はげ頭は帰り際、お母さんに似てきれいな娘さんが一緒でうらやましいよと、父親に言っていた。最近似てきて、どんどんかわいくなっているんだと父親は自慢げに返していた。
そんなに、母親に似なくてはいけないのだろうか。女は目が大きくて、肌が白くてほっそりとしていて、髪が長くないとだめなのだろうか。
そんな疑問を持ちつつ、毎日毎日、恵子は彼らの言うきれいでかわいい女になるために、必死だった。彼女の母親は美に無頓着だったというのに、相反して十五を過ぎた頃から恵子の美しさに対する執念はすさまじかった。細かった目をのりで二重にし、食事もとらずに毎月かかる化粧品やエステへの金額は年を重ねるごとに上回っていった。みるみるうちに世間でいう美人になっていく恵子に周囲は驚き、特に異性の反応は百八十度変わったが、美容に異様な神経を使う恵子を見て、母親はよくそんなに頑張れるね、私はそういうのに興味がないから、ときれいな声でけらけらと笑った。
明日は得意先への営業だ。服を寝る前に選ぼうと、クローゼットの扉を開ける。最近購入したベージュのシャツに、黒いひざ丈のタイトスカートを手に取った。いつだかこの組み合わせで父親に会った時に、ママの若いころに似ていると、嬉しそうに言われたことを思い出す。
私の今の外面は、作り物だ。素顔を隠すテクニカルな化粧をして、食べたいものを我慢して、昔は死ぬほど嫌だった女らしい曲線が出る服を着ている。
でもそうじゃなきゃ生きづらいのだ。きれいで、かわいいと、社会での存在意義が生まれるのだ。少なくとも公の場で、昔母親に言われたように外見の揚げ足を取られて悲しい思いはしない。
恵子はクローゼットの扉を閉じ、ふと手元に目をやる。母親の白い手とは違い、恵子は黄味がかった肌色をしている。健康的な肌がいいと、言ってくれた人もいた。
でもそうじゃないんだよな。こんな色は全然かわいくない。恵子は心の中でつぶやく。
クローゼットのそばにある、化粧台の上に置かれた無数の美白化粧品の茂みの中から、恵子は赤く透き通ったボトルのものを手に取り、ふたを開けてノズルを回した。