春樹(仮)
プロローグ 闇を泳ぐイルカ
僕は欠陥品だ。周りの人達はすんなりこなせることが、僕にとっては怖くてできなかったり、難しくて時間がかかったりしてしまう。でもひとつひとつの欠陥は小さいものだから、普段は目立たない。こうして、欠陥品はあたかも正常な品のフリをして世の中に出回っている。誰も気がつかない。僕だけの秘密。けれど、僕が欠陥品だと気付いたところでみんなが驚くとは思えない。きっと世界にとってはあまりにもちっぽけすぎるどうでもいい事実なのだ。誰も知らない秘密を抱えているからこそ僕は僕。欠陥。秘密。全ては僕を創る大事なファクターなのだ。それが例え、世界にとってはどうでもいいことであろうとも。
今、僕は大学の二年目を終えようとしている。もうすぐ就職活動に向けて動き出す時だ。しかし自分がこの先一体何を生業として生きていけばいいのか全く見当も付かない。目指せば成せることはそれなりにあると思うけれど、僕はやりたくもないことを仕事だからとこなして毎日を生きる自信がない。机に向かって会社のためにデータを算出し、書類を作り上げる自分。疲れも見せずに笑顔で上司と向かい合っている自分。どれを想像しても身の毛がよだつ。そもそも、そこまでして生きていたい気もしないのだ。別に死を選ぶ理由もない。けれど生きている意味もわからないのだ。これは暗い感情ではなく、むしろ明るい純粋無垢な疑問だ。
どうして人間は生きるためにあんなに一生懸命なのだろう。
きっと苦しいことのが多いはず。好きなことをしていられる時間のが遥かに短いのに。けれど体半の人は嫌になることなく生きている。これは僕の新たな欠陥部分なのだろうか。普通の人はそんなこと考えずに生きることができるのかもしれない。けれども僕は気になる。どうして地球はこんなにも大きいのか。どうして月はあんなにも遠くにあるのか。どうして冬にはふと寂しさが過ぎり、わけもなく哀しい気持ちになるのか。どうして人間は生き続けるのか。世の中の不思議に思いを馳せはじめたらきりがない。地球が自転し続けて、生き物が朽ちては生まれてくる限り不思議は続く。僕はその円に終止符が打ちたいのだ。永遠に続く丸に切り口を作り、抜け出したいのだ。
僕は今日ふとんに入り眠りにつく。そして、そのまま目を覚まさずに深い闇の海を漂い始めるだろう。円から抜け出すための出口を探して泳ぎ始める。イルカのように。優雅に。するすると。
一終われなかったニンゲン
目覚めてみると一面真っ白な世界だった。僕はまだ目を持っているらしい。ただその感覚を感じることはできない。視えるだけ。ここは天国と呼ばれている空間なのだろうか。だとしたら、思っていたより無機質なデザインだ。そんなことを考えていたら、ふと見知らぬ老婆の顔が視界いっぱいに広がったので驚いた。驚いて反射的に手を動かそうとしたのだが、なにも起きなかった。そもそも今の僕が身体を持っているのかが疑問だ。そうこう考えていたら、
「目を覚ましましたよ、先生。」と老婆が言い、
「おお、良かった良かった。もうだめかと思ったよ。」と誰かが奥から答えたのが聞こえた。
そして、三十歳半ばの白衣姿の男が近づいてくるのが見えたので、僕はさすがにここが天国なんかではなく、病院であることを理解した。どうやら僕は死に損なったらしい。そこには落胆もなければ、喜びもなかった。もともと、生きたくも死にたくもなかったのだ、どちらでも良い。しかし、この永遠の円から抜け出すのは容易なことではないという事実は僕を少し落胆させた。
「君のアパートの大家さんが物音に気付いて様子を見に行ったら君が首を吊っていたんだ。大変ショックを受けていたぞ。後でお礼を言うんだな。実家のお母さんにも連絡してくれたみたいだからもうじき来るだろう。それにしても自殺なんてするものじゃないぞ、、。君はまだあまりにも若い。若すぎるよ。命は大切にしなきゃ。」
と、さっきまでベッドの側で神経質そうに色々書物をしていた白衣の男が言った。その声は見かけによらず優しかった。一方的に話しかけられたところで今の僕はなにも言葉を返せない。けれど、反論出来たならこう言っただろう。
「若いからこそ保ってこれた汚れのない精神、身体で、新しい世界に行きたかったのだ。」と。
まぁ、代わりにまた失敗してここに連れてこられるのもめんどうだし、もう少し生きてみるけどね。と心の中で呟いた。
そうこうしているうちに、母だけでなく、父親までやってきた。こっぴどく怒られたり、泣かれたり、嵐のように騒々しかったけれど、僕の感情に波はひとつも立たなかった。正直、なにを言っているのかもあまりわからなかった。それどころか、久しぶりに会った両親に親しみさえも感じられなかった。僕は一瞬抜け出した円の外に、何か大切なものを落としてきてしまったのかもしれなかった。どうせ、何を思っても、言葉にはできないので、うるさい現実を逃避するように僕は目をつむり眠ろうと努めた。そして、やがて眠りに落ちた。
僕が入院して二週間経った十一月の半ば頃、僕はようやく白い牢屋から解放された。しかし、両親がそのまま実家に連れて帰ると言って聞かなかったので、大学は半年間の休学を取ることに決まり、僕は東京を離れた。学校に通う意味も見失っていた僕にとっては好都合だった。東京から栃木までは父が運転する車で移動した。僕は幼い頃からドライブが好きだ。何も考えずに窓の外を流れていく景色を目で追っていると頭が空っぽになって気持ちがいい。父が運転している間、助手席の母が絶え間なく話していたので、誰も僕の心がここにないことに気づかない。両親は僕をそっとしておくことに決めたのかもしれない。一安心だ。たくさんの話をするのは億劫だ。僕はからっぽになった頭で、辺り一面に降りている霜を手で潰した時の感触を思い出していた。つるつるした冷たい表面を手のひら全体でゆっくり押す。サクッとした音とは裏腹にしっとり冷んやりな感触がじわじわと広がってくる。なんとも言えない心地いい手触りだ。
栃木の中でも、宇都宮や佐野のように名の知れた場所ではなく、私の一家が暮らしている町は田んぼや畑、大きな庭に囲まれている。そのため、家に近づくに連れて道はどんどん狭くなっていき、景色は木々が中心となっていった。僕は少しだけ窓を開けて、ツンと澄んだ田舎の空気を嗜んだ。大学生になってからも長期の休みには定期的に帰ってきていたのに、この空気の新鮮さはいつまでも衰えない。必ず僕を癒してくれる。きっと、東京の空気はよっぽど汚いのだ。
まるまる三時間、外の景色を眺めながら様々なことに思いを馳せていたらあっという間に実家に着いた。出発は朝早くだったので、車を出てみたら太陽は丁度真上くらいまで登っていた。