山月記改
山月記改
たなかよ
かつて近藤修(おさむ)という名が達人として大学界隈を賑わせていた。
近藤は大学生である。足下に縋り付く単位を足蹴に寝坊を繰り返して、進級の機を泰然と見送る。彼は世の腐れ大学生の一員に違いない。絶妙な必須科目の見逃しによって本来四年しかないはずの青春を史上空前に延長しようと試みる彼に両親は冷たかった。生家から遠のき、一人暮らしをすれば金は嵩む。彼の偉業を前にして資金の援助が停まるが、気に留める気配は皆無だ。
「大学生活は万事に携わるにはあまりに長いが一事を完遂するにはあまりに短い」
それが彼の口癖であった。
鍛錬の累積が生む筋張った巌のような太腕、ではなく素朴な細腕にも関わらず、小山のような大男が近藤の両腕を取り押さえても澄ました装い。そして、軽侮に一笑した後(のち)に難なく腕を持ち上げる。どんな腕自慢がしっかと腕を握っても平然とした様子に周囲は彼をすわ妖術士ではないかしらんと恐れ戦(おのの)いた。
中には強者(つわもの)もいて、それは芸だ、実戦でそんな状況はないと高笑うものがいた。ならば、今ここで実戦と称して君が得意とする空手を見せればいいじゃないかと近藤が嘯いた。その強者がそのとき着込んでいたのは空手着でなく普段着であった。己の素性を言い当てられて驚く合間に近藤は接近している。さあどうぞと自分の胸を指示する彼を突き放そうと正拳で突こうとしたところ、相手が煙になってしまったような手応え。空振った。いつの間にか死角に入った近藤の手がその拳を包んでいる。それを振り払うべくもう一方の手で彼の腕を掴んだ。
「そら見ろ!」
喝破する近藤の声に目を見開くと確かに今の二人の姿はまさに彼が得意とする腕の取り抑えの形であった。アッと声を上げたと同時に腕が持ち上げられて足が伸びる。重心が上がったため難なく横様に投げられた。歓声を上げるのは周囲の者である。かくして、近藤は空論を唄うだけでなく実戦に身を置く達人として名を馳せるようになった。
「昔と比べ現在は加速度的に状況が変わっている。自らが窮地にある状況を打開するために学ぶのが武術であるならば昔日の跡を追いかけるに尽きるのは蒙昧のすることだ」
ただの武道に打ち込むものを彼はあざ笑った。彼が構想する「究極の武術」を聞くものは数多くいたがその全貌を知るものは皆無であった。
「私の武術を知りたいならいつでも教えるよ。今ここでも。襲ってくるなら使うこともやむを得ぬ」
眼差しに炯々なるものを秘める近藤に自分が襲いかかればその末に自分の五体がいかなる処遇を受けるか誰もが不安になったからだ。よって、向かうところ不戦勝であり帰結として彼の戦う姿は一向に現れなかった。
倍まで延びた大学生活が残り一年に迫ったときである。達人となるべく一目に触れない克己を続ける近藤に異常が生じていた。
以前には凡人として一笑に付していた同期の結婚、昇進の知らせが篠突く雨のように彼に降り注いだからだ。彼らが一角の人物として世間に評価されるのを目(もく)して近藤に似合わぬ焦燥が漂っていた。それを振り払うべくますます弛まぬ鍛錬に自身を酷使した。その末に餓狼のごとく峭刻となった彼の容貌、気質に数少ない友は蜘蛛の子のように散っていった。
既に伝説的人物になっていた彼が社会でどんな名声を得るのかと周囲の目は爛々としている。卒業を間近にしていよいよ彼の狂乱は抑えがたくなった。
天高く月が輝く夜であった。誰にも見せぬ鍛錬をするべく寅の刻に床を発った姿を隣人が記憶している。そして、その目撃を最後に彼は姿を消してしまった。その後の行方を誰も知らない。探す友人が皆無であったためである。
木村利彦という者がいた。飲食業の末席に居座るものである。就職活動をしたいのに特に琴線に触れるものがないと嘆いてイイエスをしたためずに最終学年を喃(のう)々と過ごした。社会で功績を上げる即戦力を求める企業たちが彼という才能を見逃すのは必至だった。自らをアッピールするという醜態を見せなくては自らが恃む自らの特質を発見してもらえないのが世の中である。
大学卒業の後に下宿と銀玉、雀卓を三角形的に回游していた姿を見かねて木村の叔父が板長を務める料亭に誘いがかかった。何かしら良い職が見つかったならやめようと思慮しながら通い続けること三年。何とはなしに仕事が愉快になってきた。見習いから脱す遊戯だと捉えて、もはや抜け出せなくなっていた。嵌れば他人の手を借りない限り、何にでも嵌ったまま抜け出さないのが彼の美徳である。
今となっては下宿と銀玉と勤め先を回游している。銀玉を放つ台に呑み込まれていく紙幣を眺めながら木村はこんな話を小耳に挟んだ。
「夜の新宿で強いと言われる者たちがいつの間にか姿を消しているらしい。この間、知り合いの用心棒が転職すると聞いた。なんと喧嘩で一方的に負けたとか。恐ろしく怖い顔でそう言うものだから驚いた。ちなみに、顔が恐いのは元よりの性質だった」
木村はいらぬところで好奇心旺盛な人物であった。混ぜれば危険と言われれば即刻混ぜて塩素で倒れ、十八歳未満は入場禁止と掲げてあれば中学生の時分であろうと踏み込むことを厭わない。幼少から柔道で鳴らした彼が持つ強者の自負がその噂に対する好奇心を一層強めた。夜の新宿で起きているという謎を追究するため、その日は夜まで銀玉と戯れた。結果、三人の諭吉がその貴(たっと)いを散らして彼の袂を分かつた。
夜の新宿に意気揚々と乗り込んだ彼であったが、すぐに難題と直面した。謎と出会わないのである。よくよく鑑みれば己が強者だと自ずから証明するのは困難である。僅かの逡巡の後、道端に挿してあるのぼりを彼は手に取った。百円均一で購入した油性の魔法の筆を踊らせて味のある字、蚯蚓(みみず)ののたくるが如き字で「天下無双」としたためた。満足げに手製ののぼりを背中に差した威風堂々たる出で立ちに通行人は率先して彼に道を譲ることこの上ない。日本世間の博愛精神よ万歳なりと呟いて彼は再び謎を求めて歩き出した。
然る後、すぐに呼び止められた。屈強な外人たちにである。強者であるという自己広告がもう功を奏したかと木村は自身の有能さに快哉を上げた。
「エスクキューズミー。ユーアームサシミヤモト? シャルウィーテイクフォトズ?」
何故か笑顔の外人たちにつられて木村は笑顔になって一緒に写真を撮った。行きますよ、はいチーズ。キャメラマンは道行く男であった。
思わぬ国際交流に嘆息しながら木村は外人たちと分かれた。夜の新宿は酒精が薫る。謎の存在を忘れてしまった彼は酒を煽りたくなった。ちょうど良く、眼前を軟骨生物の動きで練り歩く集団があった。こっそり———隠れることは背中ののぼりが妨げたが———跡を付けて居酒屋に入っていった。
何次会か数えていないが、少なくとも自分たちだけのものと認識していた飲みの座敷に唐突として現れた怪人物に蛸集団は狼狽えた。ここで、木村は語る。自分の雀荘にて手ひどい劣勢から逆転した武勇伝、銀玉に大量の諭吉を送り込んで厠に行って、さあ勝利の時だと帰ってみれば見知らぬ他人が自分のいた台で大勝ちしていた悲劇、また、謎を求めて新宿に行き着いた経緯を聞く内に彼らの中で木村に対する敬意が沸々とわき上がってきた。
「木村君の前途を祈念つかまつり、乾杯!」
酒精に惑わされた人間を惑わして木村も酒精に溺れていった。木村が参加してからさらに酒の会は次数を増やしていった。
さて、我に返ったとき木村は路上にいた。上下の服は消え失せ、破廉恥にも下半身にはのぼりの幕が巻かれていた。幕にのたうつ豪放なインキの染みが表すは天下無双の四文字。そこまで天下に喧伝するほどのものでもないと木村はひどく赤面した。
一人路上で佇む木村の頭に帰宅の念がよぎる。財布さえも消失していたが、あの中にいたのは漱石数人のみだったはず、どうして惜しむ気持ちになろう、と木村は持ち前の楽天気質ですぐに徒歩での帰宅を決意した。
染み入る夜の冷たい風が下半身の只ならぬ心もとなさをあられもなく伝えてきた。新たな性癖が目覚めそうになったとき、木村の耳に大声が聞こえた。
悲鳴のようなその響きが木村の脳裏から消えていた謎を復活せしめた。木村は韋駄天のごとく走り出した。内股で。内股なるも疾駆する姿は韋駄天。その変態的な勇姿のまま、声の余韻が残る裏路地に飛び込んだ。
足が地に着いた刹那に木村の背に薄ら寒いものが走った。接地した前足を突っ張らずに膝の力をフッと抜いた。加速度のまま、自然と体が前に倒れ込む。前足と同じ側の腕、右腕を丸めるようにして地面を車輪のように一回転する。柔道仕込みの前回り受け身で、路地を転がる。
「貴様が蛮行の主だな」
木村のその断言を聞く敵もさるものだった。一度の交錯だけで木村の下半身を薄温かく包んでいたのぼりを手刀で切り裂いていた。転がる状態から急に立ち上がり立ち止まった勢いで、木村の木村が露見して風鈴のように揺れている。敵の影が嘯いた。
「その風鈴、まさか我が友木村利彦ではないか」
その声は。と、声にならぬ声が木村の閉じた唇から漏れた。その唇は乾燥し青みを帯びていた。
「如何にも。私は恵比寿の近藤好典である」
危ういところであった。と小さく呟く近藤の姿は路地裏の染みになって見えない。闇に溶け込んだ近藤から声だけが木村に届く。多少嗄(しわが)れたものの面影を残すその声が木村のキャンパスに行かぬキャンパスライフを呼び起こした。
木村が初めて近藤と出会ったのは大学二回生の末であった。柔道場で相手に両手首を掴ませた状態から相手の腕を上げるという合気挙げのパフォーマンスをしていた近藤を見て木村は内心、憤懣(ふんまん)して高ぶっていた。今立ち上がって毒にも薬にもならぬ、実践に使えるはずのない遊戯をやめさせようと意気込んだ。と同時に隣で佐藤が立ち上がった。佐藤は木村の高校の一年先輩である。空手で先輩風を吹かす。それを見て彼に苛立つことが木村にはしばしばあった。彼が公衆の面前で恥をかかされる姿を見てみたい。木村の中で萌芽した好奇心、偽りない本音でそれだった。近藤と佐藤のどちらの目線で、どちらを支持してこの衝突を見るか木村には判然としなかった。佐藤は近藤に向かって言い放った。
「そんな技が実戦で通用するものか! 君が本当に強いならばこんなところで油を売っていないで試合に出るべきだ。試合に相手が両手を使って腕を掴んでくれるという状況はないぞ」
至極正論である意見に我が意を得たりと木村は手を打った。
「君にとっての、空手の実戦にはこういう状況がないのだな。本当の実戦にはあるというのに。競技という虚構の中でダンスにかまけてないでもっと広い世界に出たらどうだい」
空手の大会などで佐藤は強者だったことを木村は思い出した。自分の矜持を汚されたことに佐藤は一瞬にして激昂した。激昂するということは、頭に来たということ。頭に来たものの正体は意識。意識は有限の存在だ。ひいては、頭に上った分、その他についての意識が疎かになる。そうして出来た視界への意識の虚の内に距離を詰めて、近藤は佐藤の懐に入っていた。
首を締めるために食指と拇指を開いた形、すなわち喉輪の形になった近藤の手が佐藤の首にぬっと伸びて切迫した。佐藤が反射的にそれを掴んだ、と木村が認めた瞬間だった。佐藤の腕が頭上まで跳ね上げられた。その拍子抜けする張り合いのなさは、佐藤が自分から万歳したようにしか思えないほどであった。
両手が伸びて守るもののなくなった佐藤の顔前に近藤の拳が付けられる。思わず顔をのけぞった。人間は鉛直に屹立したときに最も力を使わなくて済む骨格構造になっている。故に、少しでも姿勢が崩れればそれを保持するために筋肉を張ってしまう。すなわち居着くという現象の一つの表れになる。
もはや咄嗟に動くことができぬ佐藤の胸を近藤が軽く掌打した。すると、ゴムまりのように彼は跳んでいって転がってしまった。
実際に武術の技は使えるのだ。木村の脳は雪白(せっぱく)となり、懐疑の目を向けたことを自責した。天窓が開いた気持ちがした。盲(めし)いた考えが啓(ひら)かされた。その日から木村と近藤の交流が開始された。
例えば、銀玉に興遊する。そのとき、近藤の銀玉が尽きたなら木村が自分の銀玉を分け与えてまた興に奮ずる。雀荘に向かったなら、二人にしか分からぬ秘密の符号で遣り取りし、厳罰のはずの通しを行う。世間では悪とされる遊びを通じて交遊を深めた。廉頗と藺相如に見られた刎頸の交わりと呼べる間柄といって相違なかった。とはいえ、木村が近藤のために行動すること、薪水の労といって過言ではなかったかもしれぬ。学費を出すために節制して、食に溢(あぶ)れる近藤のために時折、手料理を振る舞ってやっていた。この経験が現在の板前修業の一端になったのは言うまでもない。男料理にしては美味であるそれを近藤はウィダゼリィを飲するようにスイスイと箸で口元に運んだ。感動も強調することもない。まるで、神に人が貢物を献上するのは当然といった態度であった。あえて言葉の角を丸くして換言するなら、内弟子とその師匠の間柄であった。あくまでも、木村の平生はその態度を極めて、機嫌を損なうことはなかった。そうした奇妙な交わりは木村が二回生のときから数えて四年続いた。
木村が卒業したとき、彼は少し近藤の雰囲気が変わったことを感じていた。かつての近藤なら一笑に付していたはずの必死さを感じ取ったのだ。