現実という芸術

カラヴァッジョやその影響を受けたカラヴァジェスキ達の作品は日本の、仄暗い美術館の中で400年前のイタリアと同じ光を放っていた。
暗がりの中で斜めにむかって強烈に差し込む光。照らし出された人物の真に迫った表情につい無意識に後ろを振り返って光源を探してしまいそうになる。
屋外の冷たくも柔らかい太陽光の元に描かれる人物の周りは外気が匂い立つような、酒場で小さい灯りを囲む人物の絵の前では自分もその輪の一員であるかのような錯覚をうける。
現実を理想化せず冷徹なまでにありのまま描いた彼らの絵は今まさにその瞬間を切り取って存在しているようだ。
彼らは視覚から他の五感を表現することにも果敢に挑戦した。
触覚の寓意としてトカゲに噛まれる青年、聴覚の寓意として楽器を演奏する人々などの絵画は見るものの痛みや音楽の記憶を呼び起こさせる。
斬首されたゴリアテの苦悶の表情、エクスタシーに浸るマグダラのマリアの表情は、まるで今までの画家が描いた理想的に取り繕われた作品など偽善だと言わんばかりに強く主張している。
「カラヴァッジョはモデル以外のいかなる師も認めなかった」
カラヴァッジョを取り巻く現実は決して美しいものばかりではなかった。17歳で天涯孤独になった天才画家は自信過剰で粗暴な性格で賭け事に熱中し、友人と口論になった挙句、相手を殺してしまう。そして、逃亡の末、熱病にかかり、38歳の短い生涯を閉じる。画家としての名声と乱れた私生活。まさに光と影に彩られた人生であった。
カラヴァッジョはそれでもなお、現実こそが至上であるとする考えを変えなかった。
そして、その現実を完璧に模倣できる唯一の画家が自分であると。
自分が最高の画家であると信じ続けたカラヴァッジョの人生は彼の作品同様確かなものだったのだと思う。

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