「ばかもの」感想
いきなりの露骨な性描写には面食らった。ポルノサイトでしか目にしないような単語に紙面上で出くわすと、そうした粗雑なリアリティを押し売りする小説かと身構えてしまうが、この作品はそうではないようだ。警戒心はすぐに解かれた。描写は露骨だが不潔さは感じられず、むしろ繊細な飴細工のような脆さと美しさで出来ているとさえ思わせる何かがある。
あけすけでありながらポルノに堕さず、陰気ではあるが感傷的すぎない。作品をそのようにたらしめているものは何か。真っ先に考えられるのはユーモアだろう。「妻の超然」もそうだったが、陰鬱な内容を扱っていてもどこかクスリとさせられてしまうセンスが絲山秋子にはある。主人公のヒデが行為の最中に、餃子、餃子と繰り返すシーンは笑わずにはいられない。
だが特筆すべきは、それらのユーモアが単純に笑いのために用意されたものとは言いがたい点である。ナンセンスにも見えるユーモアには、一つ一つ小説的な効果が巧妙に狙われている。餃子、餃子と繰り返すシーンを例にとっても、その訳の分からないユーモア一つでヒデが間抜けで、優しさもあるが自己中心的、そして依存的であるという事実が炙りだされる。
またそれらユーモアを支えている若者言葉や方言、そして猥語などの”非文学的”な言葉の使用における技巧も無視できない。世俗的な言葉は匂いたつようなリアリティを作品に与え、かと思えば急に小説的な文法が立ち現れる。冒頭、ヒデが行為の最中に身体をくねらせる額子からオオスカシバの幼虫を想起するシーンの後にはこうある。
ヒデは知っている。イメージが損傷されたときには言葉に頼るしかない。それは嘘なんかじゃない。決して嘘じゃない。
このように落差をつけて小説的な一文を叩きつけられた読者は一気に作品に引き込まれる。生々しいようで生々しくない、独特の浮遊感もった世界への誘導は鮮烈でありスマートだ。