カエル
「カエル」
貴女が私に似ていたら、もっと綺麗だったのに。
私が人生で初めて、自分の美しさに評価をつけられたのはいつだっただろうか。鮮明には覚えていないが、和歌子は幼少期から母に言われ続けていたこの言葉を思い出す。母親の豊満な身体に包み込まれながら、髪を撫でられたり背中をさすられていると、時折母親は和歌子の顔を覗き込みながらそう言った。
和歌子は白く殺風景な、良く言えばシンプルな洗面台の鏡に写る赤く腫れ上がった顔と身体をぼんやりと眺める。
思えば、あれが始まりの合図だったのかもしれない。血液が通るたびに小さな痛みが走る感覚に慣れてきたので、鎮痛剤を取る為に洗面台の棚に手を伸ばす事をせず、寝室に向かった。外に出る事が出来るまで、あと数日。和歌子は彼女の変貌を知る由もない友人にいつも通りのメールを送信し、眠りについた。
和歌子は誰がどうひいき目に見ても、お世辞にも彼女の母親には似ていなかった。小さく平たい目と、角張った顔。黒い肌に艶がなく固い髪。和歌子が物心つく頃には姿を消していた父親に良く似ており、それでも母親は彼女を溺愛した。しかし愛情が深すぎた為なのか、父親への憎しみだったのか、和歌子が意図せずとも母親の思惑通りに行動しないと、母親は狂ったように和歌子を痛めつけた。
母親は、誰がどう見ても、とびきり美しい女性だった。幼い頃母親に手を引かれて街を歩けば、すれ違う男達は母親に見とれ目を奪われていたものだった。美しいだけでなく、教養もあり、言葉も巧みだった為、親族以外は母親の狂気じみた部分を知らず、和歌子やその兄弟はよく他人に母親の存在を羨ましがられた。
点滴を打つ日だったので、和歌子は腕をまくりやすい黒のワイシャツをハンガーから取り外した。ワイシャツを羽織りながら、黒のスキニーパンツに足を通し、シルバーの細いベルトを腰に回し入れる。病院に行くだけだが、腫れが治まりマスクが外れた今、化粧をしなくては世間様に申し訳ないと大きな化粧ポーチを片手に洗面台へ向かう。ポーチからアイライナーを取り出し、キャップを外して鏡を覗き込み、和歌子は小さく悲鳴を上げた。
そうか、私はもう、化粧をしなくとも「綺麗」に見える顔になったのか。そう思いながら、和歌子は見慣れない大きな目から細く尖った顎にかけて、自分の顔をゆっくりと手先でなぞる。母親はよく、自分の写真を撮りたがる人だった。その気持ちが今ならわかる。和歌子は鏡にうつる美しい顔に、赤い口紅だけを丁寧に塗り、塗り終えると大きな化粧ポーチを洗面台に置いたまま荷物を持って玄関へと向かった。
病院に着くと、手術前に震えの止まらなかった和歌子の手を麻酔が効くまで握っていてくれた看護婦が受付にいた。軽く挨拶をし、診察室に通される。様々な女性の変身前とその後の写真が壁に貼られ部屋に、和歌子を担当した男の医者が机を前にして座っていた。医者は和歌子に気付くと口角を上げてカルテを開いた。
「その後はどうですか、痛みは大丈夫そう?」
「はい、まだ少し赤いですけど」
「一時的なものですからね、心配しないでください」
失礼しますねと言い、医者は和歌子の前髪をかき上げ顔を覗き込んだ。
「大成功ですね、きれいな左右対称になっている」
医者は満足そうに和歌子の前髪を戻し、カルテに何かを書き込んだ。大成功では無い時が、あるのだろうか。和歌子はぐちゃぐちゃになった、知らない女性の顔を想像して辞める。
大成功である事は、和歌子はすでに知っていた。診察室を出ると看護婦に促され、薄いピンク色の部屋に通される。ゆったりとした独りがけのソファに座り、腕まくりをする。
脂肪吸引と顔の整形を施した和歌子を、病院に行くまでにすれ違った男達が見ていた事を和歌子は知っていた。男達の顔は十数年前に和歌子が見た、母親に目が釘付けになっている男達の表情そのものだった。
気分が悪くなったら声をかけて下さいねと言い、腕に針をさした私を置いて看護婦は部屋を出た。プラセンタやビタミン剤、メラニンの抑制に効くという成分が腕の大きな血管から身体に送り込まれる。液体が血管に送り込まれる際に、ヒヤリとした感覚が胸に広がる。袋に入りつり下げられた液体がぽたりぽたりと下に落ちてゆき、徐々に減っていく様を見ていると、一滴ずつ、ゆっくりと自分が母親になっていくように感じた。
それまでの和歌子の人生は、けっして悪い物ではなかった。友人もいて、趣味もあり、学歴もそこそこで恋人もいた。自分は幸せだと思っていた。だがどこかで、母親という美しい存在に対して、自分は劣っているものだという認識をぬぐい去る事は出来なかった。幸せだと思い込むしか、和歌子の劣等感を小さくする方法はなかったのかもしれない。美しい存在に対しての人々の反応を味わう事無く、死んで行くのは和歌子にとって苦痛だった。
あと数回打てば、さらに肌の白さを実感する事ができますよ。
看護婦は和歌子のうでに残った針のあとを消毒液を含ませたガーゼで押さえながら和歌子に話しかけた。そうなんですか、楽しみです。和歌子は看護婦の目を見ずに、薄く笑いながら返事をする。
この人達は、私の前の姿を知っているのだろう。何なら、私のような醜い女性達が、さも最初から美しい存在として生きてきたかの様に生まれ変わっていくのを見てきたのだろう。劣等感からこの病院へ足を運び、後ろ向きな中身とは正反対の容姿を手に入れた女性達を見て、子の人達は何を思っているのだろうか。
病院を出て、家路に着く。和歌子は相変わらず道行く男達や若い女性の視線を感じながら足を進める。人に美しいと思われるのは、こんなにも快感なのか。和歌子は今までに生まれた事の無い感情に戸惑う。交差点を渡ろうと、点滅し始めた信号に慌てて走り出そうとすると、脇道にペットショップがあるのに気がついた。雨や長い時間の経過で印刷が霞んだ青地にカタカナで大きくペットと書かれた看板に、店の外にいくつか出されたコケの生えた水槽には金魚が泳いでいた。近所だというのに、知らなかった店に興味を引かれ、和歌子は店に近づいた。横引きのドアを空けると、さびれたレジでレシートの確認をしていたアルバイトらしき青年と目が合う。和歌子が笑顔を作り、ゆっくりと会釈しながらこんにちはと言うと、青年は慌てて目をそらし、いらっしゃいませと小さくつぶやいた。
熱帯魚が多い店らしく、店内は薄暗く、水槽のライトがぼんやりと光っていた。ひらひらと泳ぐ極彩色の魚をしばらく眺めていると、足下に無造作に置かれた水槽に気づく。水槽の縁には、手書きで「浮きガエル」と書かれた紙がセロハンテープで張られており、砂利や水草も何も入れられず、ただカルキ抜きだけされた水の中に、たくさんの小さなカエルが鼻だけを水面から出して無気力に浮いていた。和歌子はそのカエル達を見る為に、目にかかる前髪を耳にかけながらしゃがみこんだ。
ついこの間までは、私はこの子達のようなカエルだったのだ。醜くて、誰にも目を留められない存在だった。そんなカエルが、魔法で美しい女に変わっただけなのだ。中身はカエルのままだというのに。人々は私が前はカエルだった事も知らずに私に見とれるのだ。
母親は、今の私を見てなんと言うのだろうか。消えた夫によく似た、カエルのような我が子が、美しくなって姿を現したらどう思うのだろうか。和歌子には想像ができなかった。どんなに見た目を母親に似せても、彼女の考えている事までは真似出来ない。当たり前の事だった。
たくさんのカエルが目をつぶり、四肢を脱力させてぷかぷかと浮いている。床に置かれた水槽の目の前からしゃがんだまま動かない和歌子を、店の青年はチラチラと見ていたが、和歌子はしばらくそこから動かなかった。