syousetu
繭
野田逸平
灰色の湖の中に身体が沈んで行く。身体は動かないが動かそうという気も起きない。このまま永遠と沈んでいくのだろうかと目を閉じたところで目が覚めた。ほぼ毎日のようにこの夢を見る。日が経つに連れて深くまで沈んで行っているような気がする。いつかこのまま夢から目覚めなくなるんじゃないかと思うことがある。どこかで目が覚めないことを望んでいる自分がいるような気もしていた。目が覚めてこの世界に戻ってきたところであの夢と何も変わらないと思ってしまう程に私の人生には希望が無い。歳はもう30代も終わろうとしていて、決まった仕事にも就いておらずもちろん交際している人などもいない。今から自分の人生に劇的なことが起こってよい方向に転ぶとも期待していないし、なにか行動を起こそうとも思ってはいない。今日も目が覚めたところで特にすることはない。部屋から出るのはバイトに行く時ぐらいでそれ以外は家にこもっているだけで特に趣味もない。
身体を起こし部屋を見渡すと何か部屋がいつもとは違うような違和感を感じた。しかしあまり気にすることも無く、とりあえず煙草に火をつけて携帯の電源を入れた。もちろん誰かから連絡が来ているはずも無い。机に置いてある新聞のニュースを流し読みしてみたが特に面白いものもない。自分の周りの人間や芸能人は人生楽しそうにしているが実際はそうではないのかもしれない。まぁ私の人生に比べたらずいぶん良いものなのだろうとは思うが。
しばらくぼーっとしているとバイトに行く準備をしなければいけない時間になったのでとりあえずシャワーを浴びて着替えることにした。バイトはコンビニの夜勤なのでどうせ出勤したら制服に着替えるということもあり、いつも服装は同じジーパンにチェックシャツばかり着ている。準備も終わり家を出ようとした時に私はようやく違和感の正体に気がついた。扉が無いのである。今まで扉がどこにあったのかわからないほど自然にその姿は消えており、今まで扉があった場所はただの壁になっていた。普通の人間であれば驚いて壁を叩いて外に助けを求めたり、なんとか外に出る方法を探すのであろうが私は驚きもしなかったし焦りも感じなかった。バイトに行けないのは痛いがそれ以外は特に外に出たいということもない。外に出られないならどうしようもないなと思い、バイトに行くのを諦め私は寝ることにした。
目が覚めて扉があるはずの方を見てみたがやはりそこには壁しか無かった。窓の方を見てみたがやはりそこには壁だけが存在していた。どうしようか少し考えたがとりあえずお腹がすいたなと思いカップラーメンを食べることにした。幸いいつも家に籠っているということもあり食べ物や飲み物はしばらく困らない程度には蓄えてあった。バイトを無断で休んだにもかかわらず連絡が来ていないのはおかしいなと思い携帯を見てみると圏外になっていた。まぁ正直今すぐ外に出たいとも思っていなかったので私はとりあえずこの状況を受け入れ、この部屋でしばらく過ごすことにした。テレビは見られるようだが特に興味もないのでテレビゲームをして過ごすことにした。
一週間ほど経つとゲームも飽きてカップラーメン以外のものも食べたくなってきた。しかし扉は依然として現れる気配もなく他に何か部屋に変化が起きている様子もなかった。こうして外に出ることも無く人と話すことも無く一週間ほど過ごしたことは何度かあるが、自分の意志で自由に外に出られないと思うといつもより時間が経つのは遅く感じられた。このまま部屋から出ることが出来ず、食料や水が尽きて死んでしまうのかと思うとこのまま人生が終わってしまうのが少し悲しいように感じてきた。今まではいつ死んでも何も後悔は無いと思っていたが、やはり実際に人生の終わりを意識し始めるとこのまま終わりたくないと考えてしまう。しかし考えるだけで行動を起こすことも無く私はまた眠りについた。
もう何日経ったのか正確な日にちもわからないが一ヶ月程経ったような気がする。今までは意識する暇もない程にあっという間に過ぎていた一ヶ月という期間がその何倍にも感じられた。この頃から私はテレビを見るようになった。バラエティ番組を見ているとなんだか人と話しているような気分になることができ、ドラマを見ていると自分にも良い出会いがあるのではないかと少し思うことが出来た。それからは毎日長い時間テレビを見続けた。私にとっての外の世界はテレビだけになっていた。毎日テレビを見ていると今まで無かった外に出たいという気持ちが強くなってきているのがわかった。いつまでもこの部屋の中に居たくない。早く外に出ていろんな人と話したい。いろんな場所に行って見たことの無いものを見てみたい。外に出られたら今まで出来なかったことが出来るような気がした。ここから私はなんとか外に出る方法を探すようになった。
私はなんとかこの部屋から出るためにいろいろと試行錯誤を開始した。まず手始めに元々扉があった場所を叩いてみたりはさみで刺してみたりしたが、他の壁の部分との違いは見つけられなかった。扉と窓以外に外に通じていたであろう換気扇なども調べてみたが全てただの壁になってしまっていた。携帯を確認してみたが圏外のままで使える気配は無い。思いつく限りの出る方法が失敗に終わった。食料も少なくなってきている。初めの頃には無かった焦りがどんどんと大きくなってきているのがわかった。
部屋から出る策が無くなってから私は毎日大きな声を出しながら壁を叩いて誰かに気づいてもらおうとした。不安と焦りで満足に寝ることも出来なくなっていた。ろくに寝ることも無く何日も壁を叩いていた私はついに疲労の限界に達し、気絶するように眠りに落ちてしまった。何時間寝ただろうか。いろんな夢を見た気がする。なんだか楽しい夢を見ていた。そして身体を起こしてキッチンで水を飲みトイレに行こうとした時、カーテンの隙間から射す光が見えた。一瞬状況を飲み込めなかったが少し考えて理解することが出来た。外に出られる。そこには前と同じように窓があり、振り返ると扉もあった。扉を開けると外の世界があった。思わず涙を流してしまった。やっと外に出られる。
外の世界に出られるようになってから2週間程経ち、私はバイトの時以外は部屋に籠るようになっていた。