「全ては理論と記憶。正しい手は一つ」
私が初めてチェスをしたのは、高校三年生の冬だった。それもちょうど今頃、センター試験を間近に控え、周囲の同級生は毎日朝から晩まで、予備校の自習室で缶詰になったり、必死にセンター試験の過去問をさかのぼって解きまくっていた時のことだ。チェスといっても、私がその当時していたのは、「オンライン」のチェスである。周囲が躍起になって、大学受験の勉強にラストスパートをかけていたころ、私はと言うと、高校三年間遊び散らかしてきたツケがまわってきて、「いささか現役での志望校は不可能である」と早々に見切りをつけ、当時通っていた「東進ハイスクール」の映像授業を在宅受講しているフリをしながら、オンライン・チェスに興じていたのである。(もちろんこのことは私しか知らない秘密事項であり、昼夜仕事を掛け持ちしながら予備校に通わせてくれた母には、今もなお伏せている事実である)
チェスに興じる、なんてたいそうなことを言ってしまったが、その頃の私は、興じるもなにもなく、チェスのルールが「なんとなく」わかるぐらいで、打つ手もパソコンが自動的に先導するところに駒を進める、なんて具合だったものだから、もちろんオンラインの相手に勝ったことは一度もなかった。そうして、暖かくなるころには、受験校全てから不合格通知が届き、オンライン・チェスの結果同様に、「全敗」を記した。
「完全なるチェックメイト」を観て、思い出されたのは、私の苦い受験の記憶であった。孤高の若きチェスの天才であった主人公が、「第三次世界大戦」とも称された、歴史的一戦を交えているのと同じぐらいの年齢の時に、私は「大学受験戦争」にいわば「不戦敗」。情けない。比べるのも失礼な話である。
一つのプロットポイントを超えて、その物語が終焉を迎え、物語が世界的にどのような効果をもたらしたのか、それを測るに戦後70年の節目や今日の世界情勢が、映画監督という芸術家たち、または商業的なネオ・戦後ブームを巻き起こそうと目論む配給会社にこれらの作品を生み出させているのだろうか。2015年は戦争に人生を翻弄された人々にスポットライトを当てる作品に数多く出会った。戦争をとりまくイデオロギー対立に飲み込まれた天才たちを映像作品として描くにふさわしい時代が2015年だったのかもしれない。
さあ、2016年はどんな一年になるのであろうか。