『マイ・マザー』

『マイ・マザー』(2009)

 

「17歳、”僕は母を殺した”」衝撃的なサブタイトルに、思わず手が伸びた。監督は、今や世界で注目されている”天才”、グザヴィエ・ドラン。

僕は、”天才”という言葉が嫌いだ。天才という言葉一つで、その人物の努力や苦悩を度外視にして一纏めにしてしまう気がするからだ。どうもこの天才という言葉には、無責任な香りがして仕方ない。臭う。電車で隣に座った中年サラリーマンの放つ加齢臭に等しい。そんな折、僕はマスクを付ける。自分の体内にそんな無責任な香りを入れてたまるか。

しかし困った。ドランに向けて放たれるこの”天才”という言葉には、嫌な香りがしない。というよりも、自分自身、彼を一言で表現してくれと言われたときに”天才”という言葉が勝手に頭に浮かんでくる。

映画は、色んな要素が集合した繊細な表現物だと思う。一つのカット、シーンの配色、役者のセリフ、再生速度、音楽、全ての要素が絶妙に交じり合って意味が生まれる。なんで急にこんな堅苦しい話をしたか、実はドランの作品においてだけ、この全ての要素に”意味”が込められているように思えてならない。一時も目が離れない。余所見をするともったいないとまで思えてしまう。

それに加えて登場人物に対する共感具合が、より一層僕を物語の渦中に引き込む。これが尋常じゃない。明らかに僕とは違う登場人物の境遇。なのに心が動く動く。動かされる。

色んな要素を盛り込もうとすると、一番伝えたい感情がどうしても見えにくくなる。だけどドランの作品は、あれだけ沢山の革新的な手法を盛り込みつつも、ドラン本人の想いがストレートに胸に突き刺さってくる。あらゆる要素が想いを伝えるための追い風になっている。

“天才”という無責任な言葉。今でもその気持ちは変わらない。だが、グザヴィエ・ドランに関しては、この無責任な言葉を使っても許されるのではないかと思えてしまう。

福田周平

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