素敵な一日の始まり

光のない部屋。静寂。私はそこに横たわり、体も心も脳もそこには存在していないかのように、空間に溶け出して、穏やかな眠りに包まれる。
と、そこに突如。耳障りな機械音が鳴り響く。高音かつ単音が、平坦に鳴り続ける。変化のないその不快音は、自然界にはありえないであろうそれだ。耳を刺す様な、脳を揺さぶる様なその音に二度三度と頭を振り、追い払おうとするけれど、そんなことで鳴り止むはずもなく。こんな調子で、私はいつもと同じ朝を迎える。
音源を見れば、デジタルの文字が朝の始まりを知らせてくる。けれど少し、目覚めが悪い。視界には、実際には存在しないはずの緑の光がちらちらと明滅する。
昔はこんなこと、起こらなかったのだけど。十代と二十代ではバイタリティが違うのかななどと、どうにもならない無い物ねだりをしながら寝床から体を起こして、朝支度を始める。
ぱちぱちと家中の電気をつける。まぶしいくらいの灯りの中、洗面台でぱしゃぱしゃと顔を洗う。口をゆすぐ。冷たさが頭を駆け巡って、徐々に意識も覚醒しだす。眠たがっていた体も、しばらくすれば明るさへの順応を示していく。
体が疲労を覚えれば休息をとる、これは自然の摂理だ。そして今私の体は、今よりほんの少し多くの長い休息を自然に求めてしまっている。それに打ち克つために人工の力、光や冷水、それを借りることで、ようやく自然に対抗できるまでに目が覚めるのだろう。そんなもっともらしい理屈のような何かを脳に巡らせられるほどには、頭に血が回り出している。
ここまでくれば、あとは人工に慣れた体を、自然に慣らし直せばいい。蛍光灯のスイッチを切り、カーテンを開けて朝の光を取り込む。先ほどよりも柔らかな光は、ともすればまた私を空間に溶かして眠りにいざなってしまったかもしれないが、既に覚醒した私の体はその心地よさを享受して、より強い覚醒状態に昇華する。
あとは空気だ。もこもこの上着を機能性重視の部屋着の上から羽織り、玄関の季節外れのサンダルをつっかけて、こそこそと外、階下の郵便受けへ。新聞といくつかの宣伝チラシを抱えて、外の空気を吸い込みながら部屋へと戻る。冷たい外気に立ち向かって、さらに意識が引き締まる。
暖めておいた部屋に戻り、台所へと向かう。電気ポットを働かせながら、八枚切りの食パンを一枚、電子レンジへと放り込む。インスタントのスープの粉をマグカップに入れて、あっという間にすぐに沸いた熱湯を注ぐ。軽やかな高い音を弾き出したレンジから、きつね色に焼き目のついたトーストを取り出してお皿に。テーブルに二品朝食を並べて、手を合わせる。
「いただきます」
これで、朝の儀式は終わり。私の脳は完全に朝を迎えて、また動きだす一日への準備を整えた。

テレビをつけ、無益無害な朝の情報番組の特集を流す。覚えておくほどでもない、でも話の種くらいにはなりそうな情報を脳に通しながら、トーストとスープをもぐもぐと口に入れていく。
と、その画面から何やら、不穏な声。女子アナが不安そうな声を作り、速報と称して薄気味の悪い事件のニュースを読み上げ出している。詳しい情報はなく、ただ通り魔殺人が発生したようだ、という情報だけを、その声は繰り返し伝えてくる。清々しい朝に、どんよりと陰鬱な空気が漂う。
くるくるとチャンネルを切り替えても、どこの局でもしばらくするたびにそのニュースが流れる。内容はどこも大差なく、ただ時間とともに判明していく情報を、どこも並列で報告してくる。首から上が切り取られていただの、手口は猟奇的で計画的だだの、近くの小中学校が対応に追われているだの。
ため息とともに私はリモコンを操作して、録画したバラエティを再生する。ごてごてのテロップに、お決まりのくだり。笑い声を誘発するような騒がしい声もおおよそ爽やかな朝には少し似つかわないが、どんよりした空気を誘発されるよりはまだ許せる。
そしてその声を背に、準備を始める。動きにくくはなくそれでいてそこまで無性別的でない、華やかさをワンポイントに添えたファッションを身に纏う。メイクも軽く、マナー程度に。テレビを消して、昨晩のうちに整えておいた荷物を手に、私は玄関へ。時間は最低限の余裕がある、といったくらい。急ぐ必要はないけれど、いざという時に困らないよう無駄な事はせず、私は外の世界へ、いつもの一日へ出発する。

「…と、その前に」
そう、誰にいうともない独り言をつぶやいて彼女は。洗面台のその先に足を運ぶ。そして、何かを確認するように。浴場の扉を開いて、うなずいた。
--狭い脱衣所の奥、浴槽に被せられた蓋の、その上。社会人三年目、独身女の一人暮らしの部屋には…いや、普通の人間の住む空間にはあるはずのない、あるべきでない異質な存在が、そこには鎮座している。
陶磁器の様に白く、冷たい色に染め上がったそれはきっと、微かな微笑みすら湛えて自らを見つめる彼女を、怨恨とともに見つめるのだろう。もしそれに意志が残っていて、所持する器官が機能さえしていれば、の話だけれど。
彼女は少しだけ、ほんの少しだけ、その存在に対して、疑問を抱く。どうして、生身の頭というのはその役目を終えると、少し不気味なものと認知されるのだろう。美容院にずらりとならぶマネキンたちにはない、どこか心をかき乱す棘を持っているのはなぜなのだろう。あるべき場所に収まっていないことが、その不安定さを際立たせているのだろうか。そんなことを、ふと思う。
しかし、その思考もわずかな時間の後、無に帰す。それは彼女にとって、あくまで想像でしかない。死体に抱く不気味なんて感情は、とうにどこかへ霧散したのか、もともと生まれつき持ち合わせていなかったのか。彼女の心が事あるごとかき乱れるほどに人間らしくあったなら、その手が血で濡れる出来事が、二度三度と人生の中で続いているわけもない。
生気を失ったその頭蓋を眺め、満足そうに彼女は今度こそ、玄関から足取りも軽く、外に繰り出していった。
今日はもしかしたら、仕事どころではないかもしれない。あったとして、事務作業だけだろうか。何しろ社員が、それもある程度の役職者が一人、命を絶たれているのだから。彼女はそんな算用を、他人事のように立てる。
自身も気づかない程度の明るい足取りで、彼女は道を跳ねていく。その狂気が露わとなる日は、まだ遠い。

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