鈍く煌めく「境界」 〜完全なるチェックメイト〜
子供の時から大人を当然のように打ち負かす。十人と同時に対局し、プロのチェスプレイヤーを片っ端から薙ぎ倒す。主人公ボビー・フィッシャーは、まるで漫画に登場しそうな「天才」の描かれ方をされているが、「完全なるチェックメイト」は1972年のチェス世界王者決定戦をもとにした実話である。
この映画は全体を通して、フィッシャーという天才の視点をうかがうことができる。熟考しなくとも駒の動きが勝手に頭に浮かんだり、1日の内18時間をチェスの研究に費やしたりと、彼の凡人との凄まじき隔絶ぶりは見ていて清々しい。本人への風評も国のプライドも、フィッシャーからすれば対岸の火事。天才の世界では、他者を見る必要性は皆無なのだ。その反面、フィッシャーには遠くの足音やわずかな機械の音でさえ気が散ってしまう脆さも備わっている。耳栓をしろと思った私は、典型的な凡人なのだろう。
凡人でも天才の領域を味わえる「完全なるチェックメイト」。しかしそこには、ある一線が引かれている。天才の視点はわかれども、天才の思考に共感することは私達にはできないのだ。度重なる失踪や妄言に試合拒否など、フィッシャーはあまりにも身勝手で奔放。感情移入の余地がまるでない。故に私達は、彼を素直に応援できないどころか、主人公の敗北に対して溜飲が下がる思いすら感じてしまう。しかし、それでよい。天才の思考が凡人に理解できないのは世の常ではないか。フィッシャーのような天才には応援など不要、むしろ耳障りであろう。たとえ度が過ぎるほど狂っていても、むしろ狂っているからこそ、人々は離れてゆくが、目を逸らすことは決してできなくなる。この映画は観客さえも非情に突き放すことで、「天才」と凡人の間に決して越えられない境界があること、そしてその境界に特異な引力があることを示しているのである。
セコンドの神父が、フィッシャーを病院に行かせるよう頼まれた際に「薬でフィッシャーの才能を壊したくない」と言う場面がある。天才とはある種の病気なのだ。何人たりとも寄せ付けぬ狂乱をまとうからこそ、油膜に映る虹の如く、彼は儚く煌めくのである。