あなたはあの音に裂かれたか(『FOUJITA』)
あなたはあの音に裂かれたか(『FOUJITA』コラム)
環境情報学部四年 田中陽理
「誰もいない森の中で木が倒れた。このとき、音はしただろうか」
哲学者、バークリが世に問うた言葉だ。
誰もいなかろうと音は響いただろうからしたと言っていいだろう。そう思った方を僕は否定しよう。
空気の振動を耳が捉え、意識に上がったそのときに音は出来上がる。
『FOUJITA』の前半には巴里の騒乱と、己に極めんとする藤田嗣治の内面に湛えられた静寂が交互に入る。その音の段差は、蹴躓いて転げ落ちそうになるほど大きい。
藤田の空想の中でさめざめとした驟雨を浴びるノートルダムには音がない。観客は、意識の上に自分が聞き知った雨音をかき集めて積み上げようとするが、劇場中を押しつぶす大きな無音の現実の前には為す術もない。遥かなセーヌを模した白いベールが波を端から端へ伝える無音にも敗れることだろう。それは、当たり前のことだ。だって、その中に藤田という主体が存在しないのだから音など生じようがない。『アッツ島玉砕』について藤田は言う。
「私は風景を描いても、描いた気がしないのですよ。人を描かないと」
藤田のいう人とはすなわち、彼が内側から見た人間だ。彼が筆で愛撫するように描いた「彼の」人間だ。
どこまでも己と向かい合い、深まる孤独の奈落に滑り落ちそうになっていた藤田。後半、彼に転機が訪れる。藤田は戦争協賛画家として日本に帰った。そこで藤田は自然が持つ微かな音を聞きおよぶに至るのだ。激しい梅雨に打ち据えられる家屋の中で藤田は言う。
「この雨音がどこから来た音なのか想像すると、楽しいのですよ」
俯いて己を見つめていた藤田が遂に風景に振り向いたのだ。風景に佇んで外へ意識を開いたのだ!
だからこそ、あなたは最後に迫りくるB29のプロペラ音に身を裂かれる思いをしたのではないだろうか。あれは、あなたがやっと感じた想像の音であると同時に、藤田の身に注がれた音なのだ。己から外を見遣った瞬間、身を焼かれた痛みなのだ。己の中の「日本」を外に見て振り返った瞬間に、戦争が彼の居場所を焼き尽くした。
あなたは、涙を堪えられただろうか。