反転する
「おはよー、真斗!」
白い息が飛び交う、冬の通学路。似たり寄ったりなコートを着込む学生の集団の中から、自分を見紛うことなくあっさり見つけ出すということは、決して簡単ではないはず。だから、その声、その挨拶を背中で聞くたび、俺は何度でも純粋な驚き、そして嬉しさ、小さな幸せを感じる。
感情を一瞬、自分の中で反芻させて、味わった後。俺--廣川真斗は、いつものように挨拶を返しながら、振り向く。
「おはよう、沙希」
そこには予想通り……というか、当然なのだが、その声の持ち主である、柴野沙希の姿がある。白い息を絶えず小刻みに吐き出しながら、小さく規則正しく並んだ歯を見せ、頬を上気させてにかっと笑う姿はまるで、青春アニメやドラマのワンカット。この後は引きのカットになるんだろうななどと、そんなことをぼんやりと頭に思い浮かべながら、進行方向へと体を向け直し、また歩き出す。
沙希はすいっと、俺の左隣十センチに体を滑り込ませて、俺の横をキープするように、ぱたぱたと歩き出す。ほっ…ほっ…と、せわしない息遣いの音が、周りの生徒の喋り声に混じって俺の耳に伝わる。……心持ち、歩みのテンポを落とし、歩幅を縮めて、登校するコートの集団の流れから外れる。足早に追いつき、追い越していく集団の流れを見やっていると、俺と沙希だけが二人、ゆっくり、ゆっくり、他の時間軸にいるような感覚を覚える。
「……うー……寒いねー」
「もうすぐ冬至になる、って時に今更そんなこと言われても……今日に始まったことでもないだろ」
「違う違う、今日は特に、って言いたいんだってばー。だって……」
そう言いながら、沙希はごそごそと、手袋を外し出す。紅色のチェック柄、その右手側だけを外すと、露わになった右手をぴと、と俺のほおに当ててくる。
「うわ、冷たっ!」
「だから言ったでしょ。手袋つけてきたのにこれだよ?もー、朝起きた時なんか布団から出たくなくてたまんなかったよ……」
ぶつぶつと独り言のように寒さを訴える沙希の話を耳に入れながら、俺は息を大きく吸い込んでみる。……言われてみれば確かに、空気が喉を刺すように、肺に入ってくるような気がする。冷たい空気に、目が覚める。
「ねー、真斗のクラスって、数学午後だよね?あのさー、」
「へーへー、どーせ宿題やり忘れたからノート見せろ、って言いたいんだろ。二限終わりに取りに行くから、それまでに写しておけよー」
「さっすが真斗、頼れるー!さんきゅー!」
たわいもない会話をぽつぽつとかわしながら、二人だけの時間を味わう。俺は小説家でもなんでもないけど、こうやって何気なく過ごしているだけでなんともいえない幸福さに包まれる自分を実感すると、青春の一ページとかいうテンプレ化された時間の表現がなぜ今日に至るまで使われているのか、分かるような気がする。他の時間、他の表現で代替が利かない、そういう唯一無二の存在だからなのだろう。
……なんて、らしくもない詩的な気分に浸りながら並んで歩を進めていると、後ろから突き刺さるような声がかかる。
「沙希ー、おはよー!なーに、またいちゃついてんの?」
「おっす、千代夏!……って、別にいちゃついてないし。ノート借りる約束しただけだもん、ねー?」
「はいはい、そう言いながらちゃっかり手繋いでるあたりがいちゃついてるって言ってるの。朝っぱらからゲロ甘カップルのリア充感溢れるオーラ浴びせられる周りの身にもなってみなさいって」
「ちゃっかりとかじゃないもんー、真斗の手あったかいからさー。つい」
「うわー、『つい』とか言ってる。これだから無自覚系って怖いわー、幼馴染補正まで入るんだからそこの質実剛健系男子がオチないわけないわー……」
「やめてよもう!そっちこそちょっかい出さないでーだ、別に付き合ってるんだから私たちが何しようが勝手じゃん」
「ハイハイソノトオリダネ……ま、どうでもいいけど、遅刻しないように気をつけなよー。んじゃ、先行ってるね」
呆れたような声で遠ざかっていくのは、もしかしなくても沙希の友達なのだろうな…と、一人会話から置いてけぼりをもらった俺は静かに考える。質実剛健系……ね。オブラートに包んだ表現であることは察した、文脈から読み取るに女慣れしてない無骨な奴、と評価されているのだろう。そんなこと他人から言われる筋合いはない…と一度は思うが、実際こう繋がれて指摘されても離されない手だったり、さりげない仕草が愛おしくて、沙希と付き合い始めてから何人もの友達に目つきが柔らかくなった、そう言われているのだから、否定できないのがもどかしい。そして同時に、その事実を認めることそれすらも、くすぐったいような、甘酸っぱいような感情の糧となる。
「……ほら真斗、急がないと本当に遅刻しちゃうよ!行こっ」
ああ、今俺は青春しているんだなあ。沙希に手を取られ、登校する生徒の時間軸に二人で戻っていく。今日という日も、平和で幸せな日常の一ページになるのだろう……
ーーーーーーーーーー
……日常が非日常へと変わるのは、こんなにもあっけない。そして、その非日常は時に、取り返しのつかない、あまりにも救いがないものである。
つい先ほどまで、色とりどりに輝いていた彼女の視界は今。何もない、ただ、白で、埋め尽くされている。
雪のような、美しさを伴うそれではない。空虚の白。
いや、その空虚を認識すら、できてはいないのだろう。最早、彼女の感覚はただそれを感じるだけ。それが脳に伝わることは、ない。
彼女の周りで、雑踏のざわめきが、野次馬の無責任な声がこだまする。
-おい、お前!待て!
-ちょっと、何?急いでんだけど。
-大丈夫か、おい!しっかりしろ!
-もしもし!……はい、救急です。人が倒れてて……襲われたみたいで……
-うわ、これ事件じゃね?ニュースとかになったら取材とか来んのかな、現場を目撃していた人みたいな!超緊張すんだけど!
混沌としたその喧騒も、きっと彼女の耳に届くけど、そこまで。
横たわる彼女の頬を撫ぜる空気の寒々しさも。彼女の体に刻まれるけれど、そのことを理解する心はそこにはなく、からっぽのまま。
柴野沙希の体は、抜け殻だった。
時刻は夕刻。太陽の焼けた赤と、月が連れてくる暗闇の混じった、美しいはずの空の色。
遠くからは、サイレンの音が鳴り響く。
冬深まる、世界から見ればなんともない、とある一日。
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「…………」
ここは、市民総合病院。その一角、精神科の入院病棟に、俺はいる。少なくとも、健常な高校生が毎日足繁く通うような場所ではない、と、求められてもいない他者視点を自分に投げかける。
学校での授業を終えた後、わざわざ自分の家と反対方向の電車に乗りここまで通うという日課は、冷静になれば学生にとって懐に痛いものである。だけど、そのような理性的な選択肢など最初からなかったかのように、俺は毎日、ここに通いつめている。
もう、今日で何度目になるだろうか。数えることは最初からしていない。ただ、何も動かない、話してくれない沙希を、俺はこれまた何も働きかけることができずに、静かに見やる。
この部屋に辿り着くまで、病院の関係者やお見舞いに来た人たちがせわしなく廊下を行き来していて、人がいる場所特有の静かな騒がしさというようなものがあったはずなのに、今、俺と沙希を包み込んでいるのは、無音、である。漏れ込む音など、ない。病院特有の、消毒されているのだろうな、と思わせるすぅっとした変な香りもあってしかるべきなのに、なぜだろうか感じられない。
この空間は、世界から切り離されたように、ふわふわとどこかを漂っている。俺と沙希、ただの二人だけしかこの世界にいない、そんな錯覚が俺に沸き起こる。
……しかし、その断絶感に心地よさを覚えることはない。たとえ恋人と二人きりという事実だけ述べれば役得なシチュエーションにしても、このような状態では…。ただ、何もせず、何もできないまま、何もしてこない沙希を、俺はただ見つめている。
「失礼します……ってあれ、真斗じゃん」
不意に俺の耳に、声という形の音が流れ込んでくる。
「お、おう。えーっと……」
病室に入ってくるなり俺の名前を気安く呼んできたその女子の顔は、見覚えがある。沙希のクラスメートで、よく沙希と冗談を言い合っている姿を見ていた。沙希も喋り好きな方だが、この女子は月並みな表現をするなら口から生まれたような、そんな印象が強く残っている。
ただ、名前が……どうも、異性の名前を覚えるのは面倒で、苦手で……
返答の遅さや俺の表情から、心を読み取ったように。その女子が顔を覗き込むように強引に視線を合わせ、その耳に刺さるような声で主張する。
「あれ、ひょっとしてあたしの名前覚えてない!?千代夏だよ!ちーよーか!斎藤千代夏!」
ああ、そうか。確かそう沙希が呼んでいたのを思い出す。……と、一人合点している間に、彼女はさらなる言葉の弾丸を撒き散らしていく。
「なになに、大切な彼女さんのことが心配で毎日通ってるの?やー、どれだけ寝込んだまんまでもこんだけ心配してくれる人がいるってんだから、沙希も幸せもんだねー。あたしもそういうカレシ、早いとこ作っちゃわないと」
……病院だろうと、この女のマシンガントークは衰えることがないのか。無神経が過ぎる姦しいその言葉に、つい語調を荒げて怒鳴る……寸前で、彼女の顔がすとん、と、落ち着きを取り戻す。
「……まー、そりゃ心配だよね。いつ目を覚ますかはわからない、なんて説明だけされてもね」
「……斎藤も説明、受けてたのか」
「千代夏でいーよ、苗字とか他人行儀じゃんか。……ま、一応沙希の友人として、みたいな感じで。目を覚ましたらサポートしてあげてね、って言われたけど、サポートするも何もまず沙希が目を覚まさないと始まらないってのにね」
沙希が倒れ、目を覚まさないというニュースはいっとき学校中に知れ渡り、しかし今はすでに沈静化しつつある。お見舞いにやってくる人も、一時期は入れ替わり立ち替わりにくるレベルだったが、最近では一日に俺一人しか来ない、というのがほとんどである。
「いつ起きるんだろうね、沙希。脈拍とかはいたって正常らしくって、お医者さん曰くここまで長いこと起きないってことは脳に重大な精神的ダメージがある可能性が高い、って。トラウマ、的な」
「らしいな。まぁ、起きたらサポートっての、そういう精神的な面でってのもあんのかね」
「なんだろうね、トラウマって……彼氏さん、心当たりないの?」
「いや、ない……の前に、その呼び方なんだよ」
「ね、もしかしたら沙希、王子様のキスで目覚めたり、とかすんじゃない?ほら真斗、ほらほら!」
「…………は?」
「冗談冗談、そんなマジな『は?』とか言わなくってもいいじゃんか。なんか空気が堅っ苦しくなっちゃったからさ、ついつい」
……あまりの馴れ馴れしさに、呆れる以外の感情が浮かばなくなる。相手をする言葉も見つからず、思わずため息がついて出る。
「はぁ……」
「……あー、ひょっとしてあたしがいるから、沙希一筋の彼氏さん的には不愉快とか?」
「……」
「悪い悪い、お邪魔虫だったね。んじゃ、またね」
そう言うが早いか、千代夏は手早く荷物をまとめ、風のように去っていく。……空気が読めているのか、読めてないのか。ともかく、再び病室には無音が訪れる。
…次にその沈黙を破ったのは、俺の言葉だった。
「沙希、聞こえてるか。…なんか、辛いことでもあったのか?悪い、気づいてやれなくて……」
…我ながら、何をほざいているのかと思う。言葉を発しない相手に対し一人語りするなんて、端から見れば痛い以外の何物でもない。ドラマや映画で見る記憶喪失系のストーリーなら、千代夏の言う通りキスの1つでもすれば、沙希が目覚めて大団円、みたいな終わり方を迎えるのだろうけど、そんな都合のいいことは起きないだろう。そもそも、病人相手にキスするような非常識な考え方ができる人間でない。でもそれでも、言葉を返さない沙希に話しかけるという今の自分の行為だけは、認められる自分がいる。
きっと、早く戻ってきてくれ、とただ、願うことだけではもう耐えられなくなっていたのだろう。
……そのあとも、ぽつぽつと思い出や出来事を話しかけながら、その日の日課は終了した。
ーーーーーーーーーー
「…で、その様子だとこってり詰め込まれたみたいだな」
「ううう…だ、だってこの式はどういう意味なの?この途中式は十分条件、それとも必要条件?とか、しつこく聞いてくるんだもん…」
「授業聞いてりゃーわかることだろ」
「…いじわるー。授業聞いてないから真斗にノート借りたんでしょ!ちょっとくらい察して教えてくれたっていいじゃん!」
「へーへー、悪い悪い」
学校から最寄駅に向かう帰り道の、その途中の大きな通りを、真斗と沙希は歩いていた。
周りに彼らと同じ制服を着たものはなく、すでに陽も傾きつつある。成績は上の中、素行は学校に目をつけられない程度、友達と放課後につるむような趣味もない。そういう高校生活をしていた真斗にとって、下校時間とともに帰路につかない理由のただ一つが沙希…真斗の彼女であった。
数学の授業の終わり、課題解説の時の質問に答えられていなかった生徒たちが呼ばれたのを見て、なんとなく「ああ、今日は帰りが遅くなるな」と予想した真斗の勘は正しかった。案の定、放課後に数学の補習があり、ノートを写して姑息にその日の指名を乗り切ろうとした沙希もその餌食となっていた。
昼休み、自分の教室にやってこなかったのはそういうことだったのかと、真斗は一人合点しながら、その補習が終わるのを一人待ち続け…そしてようやくこの時間、二人肩を並べて帰路に着いたのである。
沙希は補習をしょっちゅうもらう典型的なさぼりたがり学生であったがために、こういうように学生のいない通学路を二人歩くというのは、付き合い始めてからよくあることだった。そして真斗は、帰りが遅くなろうともこのように過ごす時間が好きだなんて考えていた。もちろん物理的には帰宅中のサラリーマンだったり街をうろつく私服の学生がいるのだが、いつもと違う雰囲気の帰り道を二人並んで歩く、という行為だけで真斗には、それがかけがえのない幸せを感じる時間なのだった。
そんな、代わりの利きそうな普通の一日。それが、もうすぐ断ち切られることに、彼らはまだ気付かない。
そのきっかけは、真斗が抱いた、ほんの少しの違和感だった。
おおよそ、百メートルほど前方だろうか。人の多く歩く中央からやや外れ、こちらに向かって歩いてきている、よれよれのジャケットを着込んだ男。少し、足元がおぼついていない。ふらふらと体の軸を定めさせず、ポケットに手を突っ込んだままこちらに向かってくる。
顔を下の方に向けているから、足元は見えているはず。なのに、なぜあのような状態で…この時間帯から、酔っ払ってでもいるのだろうか?そんな、些細な疑問の芽が浮かぶ。
でも、それはあくまで些細なもの。沙希と二人並んで歩く幸せに浸るのをやめてまで、掘りかえすものではないと、真斗の脳は判断したのだろう。
そして、その男との距離が縮まっていく。三十メートル…二十メートル…
そして、十メートルほどまで近づいた時。ふいに男が顔を上げ、沙希の方に目を向ける。その動きが視界に入り、反射的に真斗は、再びその男の方を見やって……
その瞬間。真斗は、その男の顔を捉える。
ギラギラとした眼光。定まらない視線。顔は痩せこけて、血が引いたような頰の色。そして、口元はにたにたと不随意にひくついている。
…そして。その異常な顔つきを捉えるのとほぼ同時だっただろうか。
「ああ、ひあああうああううああああ!」
狂気の沙汰の声を上げながら、二人の方に体を向け、男が突進する。
ポケットから抜き出した手からは、銀の光がちらりと光っている。
--刃物。真斗がそう判断するのに、時間はかからなかった。
男はその刃物を大きく振りかざして、こちらに向かってくる。体は…沙希の方に向いている。
とっさに、沙希を庇うように、
体が前に飛び出して、
そして、
ざくり。
そう聞こえた気が、した。
音が発生したとするならば、それは包丁の当たった首筋辺りであるべきはずなのに、その音は耳の中、そこで起きたかのように、反響する。
…一拍遅れて、
真斗の感覚、そのすべてが、体の異常状態を伝えてくる。
視界がちかちかと、赤く明滅を始める。
首に体の熱のすべてが伝わりそして、逃げていく。
寒々しさが逃げた熱に代わって、その傷口から忍び寄る。瞬く間に心臓まで流れ込み、凍らせる。
手の指、足の指は、熱い血がどくどくと脈を打って、凍った心臓を溶かそうと巡る。
耳に届く息の音が、荒い。制御できない。
…やがて、すべての感覚が、遠ざかっていく。何もかもを投げ出すように。自分が溶け出し、無に帰すような感覚。
そして、彼が世界からの全てをシャットアウトする、
…その、直前に。
何か、倒れる音が、響きが、伝わる。
なにが、おきたのだろうか……
それに疑問を感じる前に、廣川真斗の意識は今度こそ、プツリと切れた。
……。
…………。
………………。
次に真斗が意識を覚醒させた時には、彼はベッドに体を横たえていた。時間を確認すれば、あの時からちょうど十二時間ほど経っている。切りつけられた首に手を伸ばすと、包帯が巻かれてこそいるが痛みを引きずってはいなかった。
下校途中の男子高校生が薬物中毒の男に刃物で襲われ重傷を負った事件として、地元でそれなりに大きく取り扱われた、という話を、彼は聞く。幸い当たりどころがよく、命を脅かすような場所を傷付けられたわけではなく、望めばすぐに日常生活に戻れる、と医師から説明を受けながら彼は、安堵し…かけてぽつりと、つぶやく。
「…沙希は」
「沙希は、大丈夫だったんですか」
ーーーーーーーーーー
街を行く人の姿からは既に寒々しさがなくなり、陽気も春の様相を呈してきている。しかし、俺の心にはまだぽっかりと穴が空いている。
沙希の病室に通いつめる日課も、もはやルーティーンと化している。病院の人たちの中には俺の顔を覚えている人もいるようで、すれ違う看護師の方にはたまに「いらっしゃい、今日もありがとうね」などと軽い挨拶を投げかけられるまでになった。相変わらず快方に向かっているとも、その逆の報告もないのがもどかしく、それでも足繁く、半ば病的なまでに訪問を繰り返していた。
その日課の終わりは、突然にやってくる。とある、昼休み。
「廣川、いるかー?」
学年主任の倉橋先生が俺の教室を訪れ、そう呼びかける。倉橋先生が直接教室に顔を出すというのは相当珍しいことで、ざわりとなる教室のその隙間を縫って、俺は先生の元へ向かう。
「どうしたんですか?」
「実はな……」
その、およそ三十分後。
息を切らせて、俺は市民病院の前にいた。
早く、早く。会いたい。
沙希が目を覚ました、という連絡を倉橋先生から受けた瞬間、俺は前のめりに早退を申し込んで、荷物を鞄に詰め込み、ばたばたと学校を駆け出していた。
おそらく整合性のかけらもなかっただろう俺の言葉でも、全てを察していたのだろう、先生は二つ返事で申請を受け入れてくれた。その優しさに感謝を述べる間すら惜しんで、病院への道を急いだ。
受付で手慣れた手続きを済ませて、いつもの病室へ向かう。社交辞令のように扉をノックし、開く。
……そこには、久しぶりに見る、目を開けた沙希の姿が、あった。看護師と何事か、会話を交わしていた彼女が、こちらを向く。
目が合って、ああ久しぶりだね、おはよう、よかった、いろんな言葉が思い浮かんでは消える。
何を言えばいいのだろうか、何を伝えればいいんだろうか。
溢れ出る感情、伝えたいこと、それらが少しでも形となって俺から出て行こうとする、
その前に。
「えっと……」
沙希から、言葉が漏れる。
…その声音に、かすかな違和感を、覚える。改めて、沙希の顔を、見つめると。
その目は。
戸惑いと、純粋な疑問に満ちていた。
そして、次には。彼女は、俺の心を砕く、一言を。つぶやいた。
「誰、ですか?」
ーーーーーーーーーー
「おはよ、真斗」
蝉の声がビルに反響して暑さを増幅させる、真夏の通学路。皆が皆、学校指定の半袖のシャツで通学する中、後ろ姿だけで自分を見つけ出すというのは、決して簡単ではないはず。だから、その声、その挨拶を背中で聞くたび、俺は何度でも純粋な驚き、嬉しさ、小さな幸せ、そして--どうにもならない空虚さを感じる。
感情を一瞬で、自分の中に飲み込んだ後。俺--廣川真斗は、いつものように挨拶を返しながら、振り向く。
「おはよう、沙希」
そこには予想通り…というか、当然なのだが、その声の持ち主である、柴野沙希の姿がある。暑さをごまかすように軽く襟で自らに風邪を送りながら、小さく規則正しく並んだ歯を見せ、頬を上気させてにかっと笑う姿はまるで、青春アニメやドラマのワンカット。俺がもし主人公で、沙希がヒロインなら、この後は思わせぶりな引きのカットになるんだろうな…などと、そんなことを思い浮かべた自分を律するように、進行方向へと体を向け直し、また歩き出す。
沙希はすいっと、俺の左隣二十センチに体を滑り込ませて、俺の横をキープするように、ぱたぱたと歩き出す。はっ…はっ…と、せわしない息遣いの音が、周りの生徒の喋り声に混じって俺の耳に伝わる。…心持ち、歩みのテンポを落とし、歩幅を縮めて、登校する半袖の集団の流れから外れ…ようとして。我に帰るように、ペースをその集団に合わせ直す。一瞬遅れをとったけれど、沙希はぴったりと横をキープし直してついてくる。
「…なんか急いでる、真斗?」
「ちょっと、晃に頼まれごとされててさ。すぐ終わるだろうけど、朝礼にギリギリとか嫌だし」
そう言いながら、歩みは止めない。なにを頑なになっているのか、と外から見れば言われそうな行動だし、実際に俺もそう思わざるをえない。でも、なぜかどうしてもそうしていなければ、自分が堪えられないような気がして、俺は黙ってまた、歩き続ける。
「そいえば、めっきり暑くなったよねー」
「だな。」
「……」
「……」
「……話すのも億劫になるよね、本当。あはは……ね、今日って返ってくるのなんだっけ。数学IIと、古典と、えっと……」
「日本史」
「あ、そっかそっか。うげー、全部自信ないやつじゃん」
目に見えて沙希のテンションが下がるのが分かる。これ以上会話を続けられていたら間が持たなかっただろうから、ある意味好都合と言えなくもない。心苦しいけれど、仕方ない。
そう自分に暗示をかけるように黙々と歩を進めていると、後ろから後ろから突き刺さるような声がかかる。
「沙希ー、おはよー!なーに、どうしたのそんな肩落として?」
「おっす、千代夏ー…どーしよ、内申とかがっつり響くよね?」
「はいはい、別にそこまで気にしなくてもいーんじゃない?事情が事情だし、くらはっしーも大目に見てくれるって。それより、今日と明日乗り切った後だよ!勉強とか気にせず遊べる最後の夏休み!ほらほら、明るいこと考えよう?」
「…ま、そうだよね!なんとかなるか!うん」
「そうそう、その意気!最悪困ったことになってもさ、ほら、あたしも真斗もいるしさ。勉強でもなんでも、困ったことあったら相談しなよ?」
「う、うん…」
「んじゃ、先行ってるね」
そう明るい声を掛け、遠ざかっていく千代夏は最後に、俺にアイコンタクトを投げていく。目が合うと、無音で口をぱくぱくと動かし、俺に何事か伝えようとしてくる。…特に苦もなく、千代夏が伝えようとしていた言葉を読み取ることができたのは、その言葉をどこか無意識に、求めていたからだろうか。
が・ん・ば・り・な・よ……と。そう、千代夏は言い残していっていた。
…空気が読めているのか、いないのか。苦笑いを心の中にとどめて、俺は一人思考を始める。
沙希が目覚めた後。カウンセリングや様々な検査を終えて、担当してくれた医者曰く。どうやら、記憶障害の後遺症があるようだ、ということらしい。事件周辺の出来事だったり、学校のこと、自分のこと、ところどころに記憶の欠落が見られる、と。
そしてそのことは、沙希との面談ではっきりと実感してしまう。沙希は俺の名前、存在、何もかもを、忘れ去ってしまっていた。
医師からはその原因について、事件をきっかけとする記憶喪失では、その事件のことを脳が忘れたいと考えるあまり発生するため、その事件に深く関わる事柄の記憶が特に喪失されやすい…という説明を受けた。
「廣川さんと柴野さんは、お付き合いされてた……と。そうですねぇ、自分の目の前で恋人が傷つけられた、それも自分を庇って……なんてことが起きたら、性格にもよりますが、責任感を感じたりで二重に大きなショックを受けるんじゃないでしょうかねぇ」
そう説明する医者の目の前で、俺は今にも潰れ去りそうになっていた。もしもそこに同伴する大人たちが居なければ、虚しさに、苦しさに、崩れ落ちていただろうと、冗談でなくそう思っている。
あの事件で、俺は沙希を守れた、それまでそう思っていた。実際、もしあのまま異常者の包丁が沙希に突き刺さっていたのなら、それこそ彼女には心にも体にも深い傷を負う可能性だってあった。
でも、その未来を断ち切り、沙希を守った結果がこれだ。沙希は俺の記憶を失い、俺は恋人であった沙希を喪失した。
……そして、気づいてしまう。
あの時沙希を庇ったのは、自分のため、だったと。
あの時の沙希--俺を好いて、俺に幸せを与えてくれる、そんな沙希を守るための。俺のための、自己勝手な行動だったと。決して、沙希という存在が自らより失われるべきでないがために取った行動ではない。
いくら他者がその考えを否定しようと、その思いはやまない。
そうでないのなら、なぜ、今の沙希は。俺の、俺だけの全てを、忘れたのだろうか。
俺が好きになり、告白し、あの事件のあった日まで幸せを与えてくれた沙希は、どこかに行ってしまった。今の沙希は、周りから俺という幼馴染がいたという事実を教えられただけで、もはや沙希にとって俺は他人以上、友達未満の存在で。
そのことで不利益を被ったのは、紛れもなく、俺だ。
俺の記憶を沙希が失ったのは、ある意味沙希にとって僥倖なのかもしれない。自己勝手な己の感情のためだけに自分を扱っていた、そんな男など忘れてしまった方が、きっと幸せになれる。
それほどまで自虐的になってもまだ足りないほど、俺は俺に、嫌悪していた。あの頃、沙希との時間に幸せを感じていた自分に。
「というわけで、真斗!点数やばかったら、夏休み手伝ってね!」
無垢な笑顔は、燦々と俺たちを照らす朝日に彩られ、あまりにも眩しい。