「ねじれた芸術のゆくえ」(映画FOUJITA)
「心をこめて」観る人にとって、芸術は「人生を彩り豊かにするもの」だろう。私は、まだ絵画と「心をこめて」向き合ったことがない。恥ずかしながら、向き合えるだけの造詣の深さが、私にはまだないのだ。感性も、知識も余裕も。足りないものをあげればきりがない。でも、私にとって、休日に上野の美術館へ赴いたり、暖かい日に京都の静かなお寺へ行くことは、冬の寒い日に、淹れたての一保堂の茎ほうじ茶を飲むことと同じぐらい特別で、幸せなことだ。私にとって、芸術とは、一保堂の茎ほうじ茶なのだ。彼にとってのそれは、どのようなものだったのだろうか。
1920年代の狂乱のパリ、第二次世界大戦下の日本。二つの国・時代で活躍した画家・藤田嗣治。彼にとって、芸術とは、人生とは、なんて愚問だろうが、それでも私は、このねじれた世界を生き抜いた彼の心底に降りたような視点からつくられた本作「FOUJITA」を見て、考えずにはいられなかった。日本画を思わせる手法で乳白色の裸婦像を描き、エコール・ド・パリの寵児となった藤田は、モンパルナスで「フジタ・ナイト」と称する仮面舞踏会を行う。そしてその夜、ベッドで女に「バカをするほど自分に近づく。絵がきれいになる」と口にする。静かな息遣いとそのセリフの中に、藤田の体温を感じた。
パリでの活動から一転して、帰国後の藤田は、海軍省や陸軍省から依頼されて「戦勝協力画」を描く。絵筆は、パリの美しい女たちの乳白色の肌を描くのではなく、銃を胸に死んでゆく兵士の群像に代わり、画調も、暗く土気色に変わる。劇中では、画調の変化を模したように、パリでの藤田が動的に描かれている一方で、帰国後の藤田は静的に描かれている。藤田の人生、芸術が、時代に翻弄され、深く引き裂かれながらも、時代と向き合い、表現と響き合うことが追求され続けたものであったからこそ、いまもなお、こうして私たちの心に残る画家として生きつづけているのかもしれない。
(フクシマユズノ)